・関連する論語の章、弟子の誕生年、移動した国名を加えた
孔子年表です。 |
・この年表の出来事・年齢・弟子・移動した国を眺めながら論語に目を通すと、自分が孔子になったような気分になります。 |
・飛行機も自動車もない時代、孔子は国から国へと移動しま
した。礼法の先生というよりは、探検隊のリーダーです。 |
・生きるか死ぬかという極限の環境で生まれた論語の章が
多いことに気付きました。 |
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・孔子は早くに両親と死別し、貧しい生活を強いられ
ました。 |
・仕事についたと思えば、先輩からのいじめにあっていますが、学び続けました。 |
・策略、陰謀、退廃の乱世にあって、人徳を基本ととした国造りを訴えましたが、当然のこと受け入れられません。 |
・50歳をすぎて、ようやく魯の要職につきますが、政敵との争いに破れ、14年ほど流浪の生活を送ります。 |
・孔子の一生は障害と逆境の連続でしたが、人生に負けたのでも失敗したのでもありません。 |
・孔子は逆境をものともせず、終生真理を説き続け、人類を導き、使命を全うした人生の勝利者、大成功者です。 |
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・孔子の誕生年は
諸説ありますが、BC552年としました。孔子の年齢は満年齢ではなく数え年です。生まれた年が1歳です。 |
・弟子の誕生年は「孔子の弟子」の「孔子
との年齢差」をもとに、計算しました。 |
・参考資料は、「史記」・「家語」・「左伝」・「歴史読本」
・「十八史略」・「論語の読み方」(山本七平著)、致知2011/12号です。 |
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B.C |
魯 |
年齢 |
出来事 |
弟子 |
移動 |
552 |
襄公21 |
1 |
魯の
山東省曲阜(きょくふ)に近い陬(すう)という田舎町で生まれる。
父は孔紇(こうこつ・70才)、母は顔徴在(がんちょうざい・17才)。
父の姓は孔、名は紇、字は叔梁(しゅくりょう))。
孔紇(こうこつ)は下級武士で、母の顔徴在は巫女であったと云われる。
孔子には、腹違いの姉九人、兄一人(孔孟皮)がいた。
孔子の姓は孔(子は先生の意)、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)。
(長男は伯、次男は仲、三男は叔、末っ子は季) |
|
魯 |
551 |
22 |
2 |
|
|
↓ |
550 |
23 |
3 |
父、孔紇死去(72才)。魯の都の東にある防山に埋葬された。
母、顔徴在は孔子に父の埋葬場所を教えなかった。
母子家庭となったが、孔子が読み書きの勉強ができたのは、母親が巫女で
文字の素養があったからであろう。ただ、巫女は結婚を禁じられていたので、
子を産んだ顔徴在は、巫女集団からは疎外されたと考えられる。 |
|
↓ |
549 |
24 |
4 |
孔子は子供の頃、爼豆の遊び(祭器を並べ儀礼のまねをする)をしていたが、
父の埋葬場所を知らない悲しさを、紛らわしていたのだろう。 |
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↓ |
548 |
25 |
5 |
斉でクーデターが起き、荘公が殺害される。 |
|
↓ |
547 |
26 |
6 |
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↓ |
546 |
27 |
7 |
|
顔路、誕生 |
↓ |
545 |
28 |
8 |
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冉伯牛、誕生 |
↓ |
544 |
29 |
9 |
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↓ |
543 |
30 |
10 |
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子路、誕生 |
↓ |
542 |
31 |
11 |
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|
↓ |
541 |
昭公1 |
12 |
|
漆雕開、誕生 |
↓ |
540 |
2 |
13 |
|
|
↓ |
539 |
3 |
14 |
|
|
↓ |
538 |
4 |
15 |
「学に志す」ことを決意。
孔子は特定の先生について学んだことはない。すべて独学だったと思われる。
釈迦やイエスも独学であった。 |
曾蒧、誕生 |
↓ |
537 |
5 |
16 |
魯の重臣・三桓氏(孟氏・叔氏・季氏)が国軍を三分して私兵とする。
権力は、魯の昭公から三桓氏へ移った。
若き孔子は、三桓氏の横柄な態度に憤慨する。
<八佾第三041> <八佾第三042> |
閔子騫、誕生 |
↓ |
536 |
6 |
17 |
母と死別。初めて父の墓を知り、両親を合葬。
季氏の宴に出席しようとしたが、陪臣の陽虎に追い返される。 |
|
↓ |
535 |
7 |
18 |
|
|
↓ |
534 |
8 |
19 |
宋の幵官(ケンカン)氏と結婚 |
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↓ |
533 |
9 |
20 |
長男、鯉誕生。 |
|
↓ |
532 |
10 |
21 |
孔子は若い時、貧しかったので、いろんな仕事をした。
<子罕第九214> <子罕第九215> |
|
↓ |
531 |
11 |
22 |
|
|
↓ |
530 |
12 |
23 |
|
|
↓ |
529 |
13 |
24 |
|
|
↓ |
528 |
14 |
25 |
|
|
↓ |
527 |
15 |
26 |
|
|
↓ |
526 |
16 |
27 |
|
|
↓ |
525 |
17 |
28 |
魯に仕官し
委吏(倉庫係)や司職吏(家畜の管理係)の職につく。
現代の感覚でいえば、臨時雇いかアルバイトのようなものだったが、
しっかりと責任を果たし、成績をあげた。
孔子は読み書きが出来たので、重宝されたと思うが、その分、妬まれて
苛められたと考えられる。普通の人間ならここでキレてしまうが、孔子はここで
人間観察を行い、君子と小人の違いを学んでいった。 |
|
↓ |
524 |
18 |
29 |
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|
↓ |
523 |
19 |
30 |
南宮敬叔は魯の昭公から、二頭立ての馬車と下僕一人を賜り、孔子と一緒に周へ行き、老子と会う。孔子が帰る時、老子は以下のように話した。
老子・・「人を送るさい、富者は財物をはなむけ、仁者は言葉をはなむけると
いう。私は冨者ではないから、せめて仁者のまねごとをさせてもらおう。
聡明で洞察力に富んでいながら、死の危険にさらされる人がいるが、
それは他人を批判しすぎるからである。雄弁かつ博識でありながら、
その身を危うくする人がいるが、それは他人の悪をあばくからである。
およそ、社会関係のなかに生きる者は、自己主張を控えなければ
ならない」
さらに老子から次のように諭されています。
「子の驕気と多欲と態色と淫志とを去れ!」
孔子の青年期・壮年期は「おれが、おれが!」と血気に
逸(はや)って、人と張り合う所があったのでしょう
<泰伯第八204>
名声が高まり、弟子をとり始め私塾を開設する。「三十にして立つ」。 |
冉求、仲弓、
宰我、商瞿、
梁鱣、誕生 |
↓
↓
↓
↓
周
↓
↓
↓
魯
↓
↓
|
522 |
20 |
31 |
斉の景公が晏嬰を伴って魯を訪れ、孔子と会う。
景公・・「昔、秦の穆公は国は小さく辺鄙な土地であったのに、覇者となった
のは何ゆえか」
孔子・・「秦の国は小さいながらも、大志をもっておりました。土地は辺鄙で
したが、行いは正しくまっすぐでした。囚人であった五羖(ゴコ)を自分
の意志で引き上げ、大夫の爵をあたえ三日のあいだ話を聞くと、彼に
政治をまかすこととしました。この点をもって申せば、王者となることも
出来ましたでしょう。覇者では小さすぎるぐらいでございます」
景公はそれを聞いて満足した。
鄭の名宰相、子産が死去。<公治長第五
108><憲問第十四352> |
顔回,子賤,
子羔、巫馬施,
誕生 |
↓ |
521 |
21 |
32 |
|
子貢、誕生 |
↓ |
520 |
22 |
33 |
|
|
↓ |
519 |
23 |
34 |
|
|
↓ |
518 |
24 |
35 |
孟懿子と南宮敬叔は孔子のもとで礼法を学びはじめる。 |
|
↓ |
517 |
25 |
36 |
<先進第十一276>(閔子騫21才) 魯の昭公は三桓氏を一掃しようとクーデター
をおこすが失敗し、昭公は斉に
亡命する。孔子も斉に赴く。孔子は魯だけでなく、斉でも下剋上の傾向がある
ことを知る。
斉で韶の音楽を聞いてあまりの美しさに感激して、肉を食べてもその味が分から
ない程であった。孔子は魯は文化的には進んでいると思っていたが、実際は
斉のほうが立派で、魯は後進国であった。
<述而第七 163>
<八佾第三065>
斉の景公は孔子に政治の要諦を問
う。
<顔淵第十二299> <学而第一005>
|
|
↓ 斉 ↓
↓
↓
↓
↓ |
516 |
26 |
37 |
景公は孔子をとりたてようとしたが重臣の晏嬰の反対で実現せず。
<微子第十八
473>
<公治長第五 109>
孔子、斉より魯に戻る。 |
原憲、樊遅 誕生 |
↓
魯
↓ |
515 |
27 |
38 |
|
|
↓ |
514 |
28 |
39 |
|
|
↓ |
513 |
29 |
40 |
学問のうえで確信を持つにいたる。「四十にして惑わず」。
<子罕第九212> |
澹台滅明,
誕生 |
↓ |
512 |
30 |
41 |
|
|
↓ |
511 |
31 |
42 |
|
|
↓ |
510 |
32 |
43 |
魯の昭公が亡命先の斉で死去。 |
公西赤、誕生 |
↓ |
509 |
定公1 |
44 |
本国では弟の定公が即位。魯の空位時代終わる。 |
有若、誕生 |
↓ |
508 |
2 |
45 |
|
子夏、誕生 |
↓ |
507 |
3 |
46 |
孔子「易」を学ぶ。
<述而第七166> |
子游、誕生 |
↓ |
506 |
4 |
47 |
|
曾子,顔幸,
誕生 |
↓ |
505 |
5 |
48 |
魯の実力者、季孫氏に、お家騒動がおこる。季孫氏仕えていた陽貨(虎)が
力を蓄え、季孫氏を凌駕する勢いとなり、実質的に魯を支配する。陽貨(虎)は
孔子を味方に引き入れたいと願ったが、孔子は望まず。
<陽貨第十七 445>
陽貨(虎)は強靭な体,鋭い判断力,豊かな教養を備え,孔子にそっくりだった
ただ陽貨(虎)は野心の塊、孔子は救世の塊。 |
|
↓ |
504 |
6 |
49 |
魯の大夫季子然(季氏の一門)が、子路と冉有二名の逸材を召し抱えた
時の話 <先進第十一286>(子路40才、冉有20才)
魯では大夫から下々にいたるまで、正道から外れた行いをしていた。
孔子は仕官せず、詩・書・礼・楽を修める。弟子はますます増えた。 |
子張、誕生 |
↓ |
503 |
7 |
50 |
この年「天命を知る」。 <子罕第九221>
(子貢19才) |
|
↓ |
502 |
8 |
51 |
三桓氏が陽虎を攻める。 |
冉孺、曹卹、 伯虔、誕生 |
↓ |
501 |
9 |
52 |
陽虎が三桓氏に追われて斉へ亡命。
魯の実力者で専横な季桓氏にそむいた公山弗擾(コウザンフツジョウ)が、
孔子に参加を求める。孔子は心を動かされたが,結局,参加を見合わせる。
<陽貨第十七-449>
魯の定公に用いられ,中都の
町長となる。
<八佾第三 059> <子路第十三 327>
<陽貨第十七462>
|
|
↓ |
500 |
10 |
53 |
中都での実績を認められ,司空(建設大臣にあたる)を経て,大司寇(最高裁長官)となる。<八佾第三055>
魯の定公が斉の景公と夾谷で会盟した際,孔子は補佐役として随行し、
魯の名誉と定公の安全を守り、功績をあげる。
定公は無防備で出発しようとしたが、孔子は「外交交渉には軍備を
忘れてはならない」と進言したので、定公は近衛の武官を同行させた。
(文事ある者は必ず武備あり、武事ある者は必ず文備あり)
会談の後、斉の役人が座興として音楽を奏したいと申し出る。
けたたましい太鼓の音とともに剣や矛などの武器を持った踊り手が登場した。
孔子は「両国の君子が友好を誓う場で、けがらわしい夷狄の音楽など
もってのほか」と申し出る。景公は恥いって音楽ををやめさせた。
斉の役人は「では宮廷の音楽でもいかがでしょう」といって、道化や小人が
おどけ姿で現れた。
孔子はすぐに進み出て「下賤の身で諸侯を幻惑する振舞いなど、もっての
ほか、その罪、死に値します」と述べた。道化や小人はその場で首を切ら
れた。
斉の景公はすっかり動揺し帰国後臣下に嘆いた。「魯の君には君子の道を
とる臣下が控えている。それにひきかえ、わしには夷狄の道しか知らない臣下
のみだ」。
斉の景公は、かって魯から奪った土地を返して謝意を表した。
|
|
↓ |
499 |
11 |
54 |
孔子の厩が焼ける。政敵も多かったのだろう。<郷党第十252> |
公孫龍、誕生 |
↓ |
498 |
12 |
55 |
|
|
↓ |
497 |
13 |
56 |
<季子第十六433>
三桓氏の勢力抑制を定公に進言し、居城の破壊に着手する。叔氏・季氏の
居城の取り壊しには成功するが、孟孫の強い抵抗で結局失敗に終る。 |
|
↓ |
496 |
14 |
57 |
孔子は大司寇(最高裁長官)より進んで、宰相の代行となる。
魯の大夫で国政を乱していた小正卯を処刑したので、魯は理想的な国に
近づきつつあった。
斉は孔子の政治刷新によって魯が強大になることを恐れ、政治を腐敗させる
目的で、美女80名を送りこむ。その思惑どおり、魯の政治は乱れる。こうした
魯の政情に失望した孔子は官を辞し、弟子を連れて旅に出、衛に赴く。
<微子第十八 474>
(孔子が魯を去った理由は、女楽というよりは、三桓との政争に敗れたためと
するほうが自然である)
衛の霊公と会見して、ここに滞在。<子路第十三321>(冉有27才)
孔子を中傷する者の意見を聞いた霊公が、孔子を監視するに至った為、
衛を去る。
孔子一行が陳におもむこうとして、とちゅう、匡(キョウ)にさしかかった時、かって匡で乱暴狼藉を働いた陽虎と勘違いされて拘束されるが
、弟子の働きで釈放。
<子罕第九 213>
<先進第十一285>(顔淵27才)
孔子は、蒲を通り過ぎ、衛に戻る。
|
|
↓
↓
↓
↓
↓ 衛
↓
↓
↓
↓
↓ 匡 ↓
↓ 蒲
↓ 衛 |
495 |
15 |
58 |
風聞が絶えない
衛の霊公の夫人、南子に招かれて対面。弟子の子路は
不快だったが、孔子は「やましいことはない」と弁明。
<雍也第六
148>(子路51才)
霊公は南子と宦官と孔子を馬車にのせ、これ見よがしに市場を視察する。
孔子はこの様子を恥じる。 <子罕第九226>
<衛霊公第十五401>
孔子は衛を去り、曹に向かう。さらに曹を去って宋に赴く。
宋の司馬(軍事長官)の桓魋(かんたい)が孔子の暗殺を企てた為、
難を逃れて宋を去る。
<述而第七
172>
孔子は宋から鄭へ向かうが弟子達と離れ離れになってしまった。
ようやく孔子は陳を訪れて滞在。
|
|
↓
↓
↓
↓
↓
曹
↓
宋
↓
鄭
↓
陳 |
494 |
哀公1 |
59 |
魯の定公が死去し、子が跡をついで哀公となる。
陳の司敗との問答。 <述而第七
180>
呉王夫差(フサ)が、越王勾践(コウセン)を会稽において打ち破る。 |
|
↓
↓ ↓ |
493 |
2 |
60 |
この頃「耳従う」の心境となる。
晋と楚がかわるがわる陳を攻める。呉も陳を攻めた。孔子は陳を出て魯に帰ろうと
決心する。
<公冶長第五
114
>
蒲の村で公叔がおこした反乱に巻き込まれるが、弟子の公良孺の働きで
脱出し、衛に向かう。
衛の霊公は孔子が来たことを喜んだが、年老いて政務を怠りがちとなり
、
孔子を登用しなかった。<子路第十三 322>
霊公は戦の陣立てについて孔子に問う。<衛霊公第十五389>
孔子は衛を出て陳に向かう。
衛の霊公が死去。亡命していた子の聵蒯(かいかい)と孫の輒(ちょう)の
間に内紛がおこったが、孫の輒(ちょう)が出公として即位。
仏肸(ひつきつ)が謀反を起こし、孔子を招いた。孔子はこの招きに応じようとしたが、子路が引きとめた。<陽貨第十七
451> (子路51才)
|
|
↓
↓
蒲
↓
↓
↓
衛
↓
↓
↓
↓
陳
↓
↓
↓ |
492 |
3 |
61 |
魯で孔子を呼び戻そうとする動きがあったが、反対があって実現せず。
代わりに弟子の冉有(ゼンユウ)が魯に招致され、一行と分かれて帰国。 |
|
↓ |
491 |
4 |
62 |
孔子は陳より蔡へ行く。蔡の昭公が死去。 |
|
蔡 |
490 |
5 |
63 |
斉の景公が死去。<季子第十六442> |
|
↓ |
489 |
6 |
64 |
孔子、蔡を出発し楚の葉県に行く。
葉公との問答。<子路第十三328><子路第十三330>
葉公が孔子の人柄を子路に聞く。 <述而第七168>
葉から蔡に戻る途中、隠者に合う。
<微子第十八476> <微子第十八477>
楚の昭王の開明ぶりを聞き、蔡から陳を経由して楚を目指す。
蔡と陳の大夫は、孔子が楚に用いられ、楚の国力が増すことを恐れ、
徒党を集め、孔子一行をとり囲み先に行けないようにした。
子貢が夜陰にまぎれ楚王に救助を依頼。孔子一行は、窮地を脱して楚に
入る。
暴徒に包囲された時、子路へ <衛霊公第十五390>(子路55才)
暴徒に包囲された時、子貢へ <衛霊公第十五391>(子貢33才)
子張の質問に答えて <衛霊公第十五394>(子張16才)
楚の昭王は孔子の登用を考えるが、重臣・子西の反対により、断念。
楚の昭王が死去。
楚の変人接輿が、歌を歌いながら孔子の宿舎を通りかかった。
<微子第十八475>
孔子は、再び衛に戻る。
この当時の様子を晩年に振りかえる <先進第十一264>
|
|
↓
葉 ↓ ↓
蔡 ↓
↓ 陳 ↓
↓
↓
↓
↓ 楚 ↓
↓
↓
↓ 衛 ↓ |
488 |
7 |
65 |
|
|
↓ |
487 |
8 |
66 |
魯は呉の攻撃を受けるが、かろうじて撃退。斉も魯を侵す。
孔子は引き続き衛に滞在。 |
|
↓ |
486 |
9 |
67 |
|
|
↓ |
485 |
10 |
68 |
孔子は、魯と衛の国の政治を比較して、兄弟のようなものと云う。
<子路第十三319>
衛の出公の父は位につくことができず、国外に亡命をしていたので、
諸外国は、この件で衛を非難した。弟子達は孔子に意見を求めた。
子貢・子夏は衛の出身。その他にも衛の出身者が多くいた。
<子路第十三
315><述而第七
164>
(子路59才,冉有39才,子貢37才) |
|
↓ |
484 |
11 |
69 |
魯における冉有(ゼンユウ)の働きにより、孔子一門の才能が評価され、
孔子のもとへ招聘の使者が訪れる。孔子は14年ぶりに帰国。
魯の哀公との問答。 <為政第二035>
魯の哀公が宰我に問う <八佾第三061>(宰我41才)
魯の季康子との問答。 <顔淵第十二305>
<顔淵第十二306>
<顔淵第十二307>
しかし、孔子は仕官せず、教育と著述に没頭した。
この頃は周の王室が衰退し、儀礼や音楽がなおざりにされていた。
孔子は殷・夏・周の資料を調べなおし、秩序だてて整理を始める。
<八佾第三049><為政第二039><八佾第三054>
魯の大師(楽官の長)との会話 <八佾第三063>
孔子は詩を整理し、音楽と合致するようにした<泰伯第八202>
孔子学園の様子 パート@
孔子の教育方針の四本柱 <述而第七174>
孔子が慎重を期したこと <述而第七162>
利と命について <子罕第九209>
孔子が弟子達に求めた態度<述而第七158>
|
息子の孔鯉 死去 |
↓
魯
↓
↓
|
483 |
12 |
70 |
「心の欲するところに従って矩を踰えず」の心境。
孔子は自分の人生を振り返って <為政第二020>
孔子の立ち振舞い
孔子が人と接する態度は <郷党第十241>
家老と話す時の様子は <郷党第十242>
宮廷での様子は <郷党第十244>
孔子の食生活とお酒は <郷党第十247>
近親者を亡くした人へは <述而第七159>
喪服をつけた人には <子罕第九218>
孔子学園の様子 パートA
三人行えば我が師あり <述而第七171>
孔子が憂えた四つの点 <述而第七153>
歌の指導方法は <述而第七181>
孔子が言及しなかった事 <述而第七170>
子貢の感想 <公冶長第五105>
顔淵が溜息まじりに云う <子罕第九219>
孔子の冗談 <子罕第九210>
|
|
↓ |
482 |
13 |
71 |
最も高く評価していた弟子の顔回(ガンカイ)が死去。
孔子は「天に見捨てられた」と慟哭。
そして、その葬儀は孔子の反対にもかかわらず、盛大に行われた。
<先進第十一 270><先進第十一
271> (顔回41才)
<先進第十一 272><先進第十一 273>
孔子は毅然として曰く <憲問第十四379>
|
顔回、死去 |
↓ |
481 |
14 |
72 |
孔子は魯の年代記をもとに歴史書「春秋」を作った。
孔子は弟子達がくつろぐ様子を見て、子路の事を心配する。
<先進第十一275>(閔子騫57才,子路63才,冉有43才,子貢41才)
斉でクーデターが勃発、田常が君子の簡公を殺害。斉の事態を知り、
魯の哀公に田氏討伐のための出兵を進言したが、容れられなかった。
弟子の宰我がこの事件で犠牲となった。<憲問第十四
364>(宰我43才) |
宰我、戦死 |
↓ |
480 |
15 |
73 |
衛で王位をめぐる内乱が起き、重臣につかえていた子路が、事態に
まきこまれて死去。子路の遺体が塩漬けにされたとの報を聞いた孔子は、
家中の塩漬の肉を捨てさせた。 |
子路、戦死 |
↓ |
479 |
16 |
74 |
朝廷で歌われる雅や宗廟で歌われる頌が、本来の演奏に戻ったと喜ぶ。
<子罕第九 223>
弟子の子貢が孔子のもとを訪れたさい、杖にすがって門前で待っていた
孔子は、「遅かったではないか」と言い、死期が迫っているとの意味をこめた歌を
口ずさみ、泣いた。この日から病床に伏した孔子は、七日後、門弟たちにみとられて息を引き取った。遺体は魯の都曲阜の北、泗水のほとりに葬られ、弟子たちは墓の側で三年間の喪に服した。子貢はそれでも立ち去れず、さらに三年の喪に服した。<雍也第六
150>(子貢43才) |
|
↓
|