〔原文〕
佛肸召。子欲往。子路日、昔者由也聞諸夫子、日、親於其身爲不善者、
君子不入也。佛肸以中牟畔。子之往也如之何。子日、然。有是言也。
不日堅乎、磨而不磷。不日白乎、涅而不緇。吾豈匏瓜也哉。焉能繋而不食。
〔読み下し〕
仏肸召ぶ。子往かんと欲す。子路曰わく、昔者由や諸を夫子に聞けり。日わく、親ら其の身に於いて不善を為す者には、君子入らざるなりと。仏肸中牟を以て畔く。子の往くや之を如何。子日わく、然り、是の言有るなり。堅しと日わずや磨すれども磷がず。白しと日わずや涅すれども緇まず。吾豈匏瓜ならんや。焉んぞ能く繋りて食われざらんや。
〔新論語 通釈〕
晋の大夫の趙簡子(ちょうかんし)の家臣仏肸(ひつきつ)が、中牟(ちゅうぼう)を根城として謀反を起こし、孔子を招いた。孔子はこの招きに応じようとしたが、子路が引きとめて、「昔私は先生からこのようなことを承っております。自ら不善を為すもの者とは君子は与(くみ)しないものだと。今仏肸は中牟を根城として謀反をはたらいておりますのに、先生が往こうとなさるのはどうしたことでしょうか?」と云った。
孔子は、「確かにそう云ったことがある。だが、こういう諺もあるではないか、『磨いても磨いて薄くならないものが真に堅いものであり、染めても染めても黒ずまないものが真に白いものである』と。真に出来た人物ならば、ミイラ取りがミイラになるようなことはないのだ。私はあの苦瓜のように、ただぶらりと垂れ下がっているだけの役立たずにはなりたくないのだ」と云った。
〔解説〕
仏肸は晋の大夫趙簡子の家臣ではなく、魯の大夫范中行(はんちゅうこう)氏の家臣であり、且つ謀反をはたらいたのではなく、趙簡子の攻撃から中牟を守り抜いた功臣である、とする説もありますが、はっきりしませんので、ここは子路の言葉通り「仏肸中牟を以て畔く」に添って通釈してみました。
孔子この時63歳、この時も結果的には仏肸の招きには応じませんでした。孔子がここで引用した『磨すれども磷ろがず、涅すれども緇まず』とは面白い諺で、余程人物が出来ていないとこうは行きませんね。大抵は、朱に交われば赤くなり、ミイラ取りがミイラになってしまうものです。孔子は仏肸に加勢する為ではなく、説得する為に行こうとしたようですが、ミイラ取りならぬ自信があったのでしょう。
〔子供論語 意訳〕
仏肸という代官が反乱を起こして中牟という町の城に立てこもり、孔子様に助太刀を頼んだ。孔子様は行こうとしたが、弟子の子路が、「私は前に先生から、自ら進んで悪事をなす者とは、君達は仲間になってはならん!と教わっております。なのに先生はどうしてそれに加勢しようとされるのですか!?」と詰め寄った。孔子様は、「確かにそういったことがある。私は加勢する為に行くのではない。おやめなさい!と説得しに行くんだよ」とおっしゃった。子路は、「今はそのつもりでも、説得するつもりが逆に説得されて、ミイラ取りがミイラになってしまいかねません。どうか危ないことはおやめ下さい!」と食い下がった。これに対して孔子様は、「昔の諺にも『本当に堅いものは研いでもすり減らない、本当に白いものは染めても黒ずまない』というではないか。大丈夫!私の意志は堅いし、悪事には染まらない」とおっしゃったが、子路が「イーヤ、イケマセン!!」と強く反対したので、孔子様は断念した。
〔親御さんへ〕
意訳というより創作になってしまいましたが、まあいいでしょう、大意がつかめれば。449章の公山氏の件といい、本章の仏肸の件といい、ともに子路の猛反対で断念している。孔子この時63歳、子路は54歳、亡命してから丸八年になります。一働きしたくてウズウズしていたのでしょう。亡命生活はあと五年続きます。
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