〔原文〕
公山弗擾、以費畔。召。子欲往。子路不説日、末之也已。
何必公山氏之之也。子日、夫召我者、而豈徒哉。如有用我者、
吾其爲東周乎。
〔読み下し〕
公山弗擾、費を以って畔く。召ぶ。子往かんと欲す。子路説ばずして曰わく、之くこと末きのみ。何ぞ必ずしも公山氏に之れ之かんや。子日わく、夫れ我を召ぶ者にして豈徒ならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周を為さんか。
〔新論語 通釈〕
季氏の家臣の公山弗擾が、季氏の私領の費を根城にして謀反を起こし、孔子を招いた。孔子はこの招きに応じようとしたが、子路が猛反対して「行くことはないでしょう! 何で謀反を起こした公山氏の所へなど行く必要がありましょうか!?」と云った。孔子は、「私を招くからには、それだけの理由があってのことだろう。本当に私に任せてくれるのなら、文王・武王・周公の築いた西周の文化をこの東方の魯国で再興してみせるのだが」と云った。
〔解説〕
結果的には、孔子は公山氏の招きには応じませんでした。公山氏が謀反を起こしたのは、左伝では定公の十二年、史記では定公の九年となっている。左伝では、公山氏率いる反乱軍に取り囲まれた定公を救出する為、孔子が正規軍を指揮して反乱軍を討ち破ったことになっておりますが、史記では次のように伝えています。
「定公九年、陽虎勝たず、斉に奔(はし)る。この時孔子年五十なり。公山不丑(ふちゅう・弗擾のこと)、費を以って季氏に畔(そむ)き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循(したが)うこと久しきにわたり、温温たれども試みる所無く、能く己を用うるもの莫(な)し。曰く、『蓋し周の文王は豊鎬(ホウコウという小さな村)より起こりて王たり。今、費は小なりと雖も、もしくは庶幾(ちか)からんか』と。往かんと欲す。子路説(よろこ)ばず、孔子を止む。孔子曰く、『夫(か)の我を召すは、豈徒(いたずら)ならんや。如し我を用うれば、其れ東周を為さんか』と。然れども亦卒(つい)に往かず」。
〔子供論語 意訳〕
公山弗擾という代官が反乱を起こして費という町のお城に立てこもり、孔子様に助太刀を頼んだ。孔子様は行こうとしたが、弟子の子路が「どうして反乱軍に加勢するのですか?行く必要はありません!」と猛反対した。孔子様は、「公山さんは私に政治を任せたいから呼んだのだろう。任せてくれれば立派な国にしてみせるのだが」とおっしゃったが、子路が一層強く反対したため、行くのは見合わせた。
〔親御さんへ〕
孔子この時五十歳、中々仕官が叶わず、「人知らずしてうらみず」と自らに言い聞かせていた時期だったのではないでしょうか。この翌年、五十一歳の時に漸く定公に用いられ、中都の長官になります。
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