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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
顔淵死。子哭之慟。從者曰、子慟矣。曰、有慟乎。非夫人之爲慟、而誰爲。
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〔 読み下し 〕 |
顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、子慟せり。日わく、慟すること有るか。夫の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせん。。
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〔 通釈 〕 |
顔淵が死んだ。弔問に行った孔子は、身体を震わせ声をあげて泣いた。お供の弟子達は、「先生が慟哭しておられる」とささやいた。これを聞いた孔子は、「私が慟哭したって?いかにもその通り。この子の為に慟哭せずして、一体誰の為に慟哭しろと云うのかね!?」と云った。
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〔 解説 〕 |
弔問に行った際に声をあげて泣く「哭(こく)」は、士喪の礼と云って、当時の儀礼の一つとされておりましたが、「慟(どう)」は身内のみに限られていたようです。
葬式の時に雇われて泣くのを生業(なりわい)とする人達を、泣き男・泣き女と云いまして、中国や韓国では今でもその習慣があるといいます。能登半島の七尾市でも最近まであったそうで、代金の多寡によって、一升泣き・二升泣きという泣き分けがあったそうですね。
韓国での葬儀の模様がテレビで放映されると、決まって棺桶にすがりつき、身体を震わせて大声をあげて泣いている場面に遭遇しますが、涙が出ていないのによくあれだけ泣けるものだ?と感心していたけれど、あれは遺族じゃなくて、プロの泣き屋だったんですね。そういえば、北朝鮮の金日成が亡くなった時の報道でもそうでしたね。てっきり泣きコンテストでもやっているのかと思いましたよ。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
顔淵が死んだ。孔子様は身体を震わせ大声をあげて泣いた。お供の弟子達は、「先生、そんなにお嘆きになると身体にさわります」と云った。これに対して孔子様は、「分かっている。だが今はこの人の為に、気のすむまで泣かせてくれ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
私達は普段人前で声をあげて泣くことを恥ずかしいと思っておりますが、本当に悲しい時は、声をあげて泣いたら良いのではないでしょうか?正直な感情の発露だと思います。
人は悲しい時だけではなく、嬉しいと云って泣き、悔しいと云って泣き、怖いと云って泣き、痛いと云って泣き、苦しいと云って泣き、ありがたいと云って泣き、情けないと云って泣き、申し訳ないと云って泣き・・・、いろんな場面で泣きますが、泣くというのは一体全体どんな作用によるものなのでしょうか?
泣くという行為は、肉の感官による大脳の働きによるものもあるでしょうが、殆どは魂の感応なのではないでしょうか。大脳の指令で泣けるのは、役者か詐欺師くらいのものでしょう。
涙で一番怖いのは、何と云っても女(おなご)の涙だね。これは女性最大の武器ですよ。現代女性は、男女同権だ・機会均等だと云う前に、もっと泣き方の研究をした方が良いかも知れない。何も云わずホロリと流される涙には、大概の男は金縛りにあってしまうんですよ。手も足も出ないんだよねー。でも、時々嘘泣きするからなあ、女は・・・。
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