述而第七 159

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原文                 作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日哭、則不歌。
 
〔 読み下し 〕

()()()(もの)(かたわ)らに(しょく)すれば、(いま)(かっ)()かざるなり。()()()(おい)(こく)すれば、(すなわ)(うた)わず。
 

〔 通釈 〕
先生は、喪に服している人の側(そば)で食事をする時は、程々に控えられた。又、弔問に行って哭礼(こくれい・声をあげて泣くこと)を行なった日には、歌を歌われなかった。
 
〔 解説 〕

孟子は、「人皆人に忍びざるの心あり。惻隠の心無きは人に非らざるなり(人は皆他人の不幸を平気で見ているには耐えられない心があるものだ。人の不幸を憐れむ気持のない者は人間ではない)」と述べておりますが、「人の痛みの分からないような者は、人間じゃない!」ということでしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)は、身内(みうち)葬儀(そうぎ)(かな)しんでいる(ひと)のそばでは、食事(しょくじ)(ひか)えめにされた。(また)葬儀(そうぎ)参列(さんれつ)して(なみだ)(なが)した()には、(うた)(うた)われなかった。
 
〔 親御さんへ 〕
孔子の時代は、葬儀に参列した時には「哭礼(こくれい)」と云って、声をあげて泣くことが礼儀作法とされておりました。日本人は、人前では悲しみをぐっとこらえて、大声をあげて泣き叫ぶようなことはしませんが、お隣の韓国では哭礼の風習が残っているようで、身内の葬儀には棺に取りすがって大声で泣きわめく。あれは悲しみのあまり我を忘れて泣き叫んでいるのではなくて、ああやるのが儒教の元々の仕来たりなんですよ。涙が殆ど見えないでしょう。
 
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