〔原文〕
齊景公待孔子日、若季氏、則吾不能。以季孟之間待之。日、吾老矣。不能用也。孔子行。
〔読み下し〕
斉の景公、孔子を待ちて曰わく、季氏の若きは則ち吾能わず。季孟の間を以て之を待たん。曰わく、吾老いたり。用うること能わざるなりと。孔子行る。
〔新論語 通釈〕
斉の景公が孔子を登用しようと思って、待遇について「魯の上大夫の季氏のような待遇はできぬが、下大夫の孟氏との中間位のことならできよう」と云った。ところがしばらくして「私はもう年老いてしまった。あなたほどの人物を召し抱えても、使いこなせないだろう」と云った。これを聞いた孔子は斉を去った。
〔解説〕
この時の様子が史記「孔子世家」に紹介されています。「景公、政を孔子に問う。孔子曰く『君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり』と。景公曰く『善き哉。信(まこと)に如(も)し君は君たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらずんば、粟(ぞく)有りと雖も吾豈得てこれを食らわんや』と。
他日又復(またまた)政を孔子に問う。孔子曰く『政は財を節するに在り(財政の節約)』と。景公説(よろこ)んで尼谿(じけい)の田(でん・地名)を以て孔子に封ぜんと欲す。
晏嬰進みて曰く『それ儒者は滑稽(口上手)にして軌法(模範)とすべからず。游説乞貸(きったい)す。(諸国を遊説して物乞いする)。以て俗(風俗)と為すべからず。大賢息(や)みしより(偉大な賢者が没してから)周室既に衰え、礼楽缺(か)けて間有り。今孔子、容飾盛んにし、登降の礼・趨詳(すうしょう)の節(立ち居振る舞いの礼節)を繁くす。累世(世を重ねても)其の学をつくすこと能わず、当年其の礼を究むること能わず。君、之を用いて以て斉の俗を移さんと(改めようと)と欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり(貧しい人民をほったらかしておいて優先すべきことではない)』と。
後、景公孔子をとどめて曰く『子に奉ずるに季氏を以てすることは吾能わず。季・孟の間を以て待たん』と。斉の大夫孔子を害せんと欲す(孔子を殺そうと企んでいた)。孔子之を聞く。景公曰く『吾老いたり。用うること能わず』と。孔子遂に去り、魯に反(かえ)る」。
孔子が昭公について斉に行ったのが35才の時、魯に帰るのが43才の時ですから、本章は恐らく孔子が魯に帰る直前の出来事を述べたものでしょう。この時孔子の登用に強く反対したのは晏嬰のようですが、晏嬰ほどの人物が孔子を殺そうとしたとは思われません。
晏嬰以外の大夫が孔子を亡き者にしようと企んでおって、晏嬰は一刻も早く去らせなければと考えて、景公に、「吾老いたり。用うること能わざるなり」と云わせたのではないかと思います。(この時景公は男盛りの五十代で、まだ老け込む年ではない)孔子も晏嬰の気持は充分分かっていたようで、公冶長第五109章で「晏平仲(晏嬰のこと)善く人と交わる。久しくして之を敬す」と、晏嬰の人柄を称賛しています。
それにしても、この記録を残したのは弟子の誰でしょうか?孔子と年の差が15才以内の人物と思われますが、顔路(6才下・顔淵の父)か?冉伯牛(7才下)か?子路(9才下)か?閔子騫(15才下)か?この人達はいずれも孔子の地元魯の人ですから、斉について行ったのはこの四人のうちの誰かでしょう。
〔子供論語 意訳〕
孔子様が40才頃の話し。斉の国に滞在していた時、斉国の殿様の景公が孔子様を召しかかえようと思って、「魯の国の季総理大臣のような待遇はでないが、孟長官との中間くらいのことならできるでしょう」と提案したにもかかわらず、しばらくしてから「私はもう年をとってしまって気力がなくなった。あの話しはなかったことにして下さい」といったので、孔子様は就職をあきらめて魯国に帰った。
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