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原文
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作成日 2005年(平成17年)7月から9月 |
廏焚。子退朝曰、傷人乎。不問馬。
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〔 読み下し 〕 |
厩焚けたり。子、朝より退いて曰わく、人を傷いたりやと。馬を問わざりき。
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〔 通釈 〕 |
孔家の厩が火事で焼けた。朝廷から急いで帰った孔子は、「人に怪我はないか?」と云った。馬のことは何も聞かなかった。
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〔 解説 〕 |
孔子この時53〜4才と思われますが、家には誰がいたのでしょうか?記録には何も残っておりませんが、推測するに、妻の幵官氏、息子の鯉夫婦と孫の伋(子思)、弟子と使用人数名といったところでしょうか?娘の嬈(じょう)は公冶長に嫁いでいたから不在でしょう。
なんで火の気のない厩から火が出たのか不思議ですが、孔子の政治改革に反対する政敵も少なからずいたでしょうから、もしかしたら狙われたのかも知れません。孔子も「もしや!?」と思ったのではないでしょうか?だから、帰るなり「人に怪我はないか?」となった。(考え過ぎかな?)
マッチもライターもない当時、どうやって火を得ていたかと云うと、「燧(すい)を切る」といって、木の棒を板の上で素早く回転させ、摩擦熱で火を起こしていたようですが、石英に鉄片を打ちつけて火を起こす「火打石(燧石ひうちいし)」が使われるようになるのは、鉄が発明されてからになります。
孔子の頃は、既に鉄が武器や農具に使われておりましたから、もしかしたら、火打石が使われていたかも知れません。中国は石英の宝庫ですからね。「もしかしたら?」ばかりですみません。記録がないものですから。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様の家の馬小屋が火事で焼け、大切な馬が死んだ。知らせを受けた孔子様は急いで勤務先からもどり「誰もケガはないか!?」と、一人一人の無事を確認すると、「よかった、よかった!」といったきり、馬のことは何も聞かなかった。
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〔 親御さんへ 〕 |
この頃、馬は貴重な財産の一つで、大夫のステータスシンボルと考えられておりましたから、当然馬番がいた筈ですが、孔子は何も咎め立てしなかったようですね。当時の馬一頭は、今のベンツ一台分位の値打ちがあったのではないかと思います。自分のベンツをポンコツにされて、「怪我がなくて何より!」などと云えますかね?やはり大物だね、孔子は。
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