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原文
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作成日 2004年(平成16年)7月から11月 |
冉有曰、夫子爲衛君乎。子貢曰、諾、吾將問之。入曰、伯夷・叔齊、何人也。
曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。叉何怨。出曰、夫子不爲也。
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〔 読み下し 〕 |
冉有日わく、夫子は衛の君を為けんか。子貢日わく、諾、吾将に之を問わんとす。入りて日わく、伯夷・叔斉は何人ぞや。日わく、古の賢人なり。日わく、怨みたるか。日わく、仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん。出て日わく、夫子は為けざるなり。
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〔 通釈 〕 |
冉有が子貢に「先生は衛の君【出公輒(しゅっこうちょう) 】をお助けになるだろうか?」と問いかけた。子貢は「よし、私が一つお聞きしてみよう」と云って、孔子の室に入って、「伯夷と叔斉はいかなる人物でしょうか?」と質問した。
孔子は「昔の賢人だよ」と答えた。子貢は「伯夷と叔斉は、互いに君位を譲り合って周に亡命し、周が宗主国殷を討った時、周の保護を受けることを潔しとせず、首陽山に隠れて餓死したと聞いておりますが、怨みを抱いて死んで行ったのでしょうか?」と重ねて問うた。
孔子は、「二人とも自ら善しと思う人の道を求めて全うしたのだから、何の怨みなどあろうや」と答えた。子貢は退出すると、「先生は衛君をお助けにならないよ」と
冉有に云った。
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〔 解説 〕 |
この章は次の背景を知らないと、何を云っているのかさっぱり訳が分かりません。衛の霊公と夫人南子との間にできた子が聵蒯(かいかい)、聵蒯の子 即ち霊公の孫が輒(ちょう)で、聵蒯は母南子の不品行を憎んで暗殺を企てますが、失敗して放逐され晋に亡命する。
そのうち霊公が亡くなり、遺志を継いだ孫の輒(ちょう)が即位して出公(しゅっこう)となる。これを亡命先で知った父・聵蒯(かいかい)は、君位継承権は自分にあると、晋の後ろ盾を得て息子の輒(ちょう)と争っていた。
果たしてどちらが正統(正しい系統)か理解に苦しんでいた冉有は、切れ者の子貢に聞いてみる訳ですが、子貢も分からなかったと見えて、ならば先生に聞いてみようとなる。
そこで子貢は、聵蒯(かいかい)・輒(ちょう)、父子と正反対の行動をとった伯夷・叔斉兄弟の話しを持ち出して、二人は不本意ながら亡命し、怨みを抱いて死んで行ったのではないか?と質問する。これに対して孔子は、二人は己の信念に従って行動したのだから、怨念などないと答える。これを聞いた子貢は、先生は輒(ちょう)を助ける意志はない!と判断する。
子貢が何故このような判断をしたのか、今一つ分かりにくい所ですが、こうではないでしょうか?周公旦の定めた当時の周の礼制では、君位の相続は「父子相続」と決められていましたから、何事もなければ霊公の後を子の聵蒯(かいかい)が継ぐことになる。ところが聵蒯は母 南子の暗殺を企てて失敗し、不本意ながら放逐されて亡命する。
伯夷・叔斉のように、本意からの亡命であれば、残った次男(仲)が後を継げば良いが、聵蒯(かいかい)の場合は不本意の亡命であるから、戻って来れば礼制に従って子は父に君位を奉還するべきだ。つまり、輒(ちょう)は聵蒯(かいかい)に君位を返すのが筋道で、父が亡くなればいずれ君位は子に巡って来るのだから、何も今父と争うことなどないではないか。
又父も父で、一度放逐された人間がノコノコ舞い戻って来て、息子と争いごとを演じ国を混乱させるなど、もってのほかである。困るのは人民ではないか。奪い合いと譲り合いとどちらが人倫の道か、ちょっと考えれば分かるではないか。父も父なら子も子で、ばか父子の喧嘩に師は関わるつもりはない!子貢はこう判断したのではないかと思います。雑駁な推理ですが。
それにしても聵蒯(かいかい)と輒(ちょう)のことなどお首にも出さず、伯夷と叔斉の話しを持ち出して孔子の心中を察するとは、さすがに切れ者子貢ならではの芸当ですね。伯夷と叔斉の説明は、公冶長第五115章の解説をご覧下さい。詳しく知りたい方は、史記「伯夷列伝」をお読み下さい。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様一行が衛に滞在していた時、衛の国では殿様の位をめぐって父親のカイカイと息子のチョウが親子喧嘩をしていた。弟子の冉有が子貢に「先生は今の殿様チョウの助太刀をなさるだろうか?」と問うた。子貢も同じことを考えていたので、「よし、私が先生にお聞きしてみよう」といって孔子様の部屋に行き、カイカイとチョウのケースと正反対の行動をとった大昔の偉人のたとえを引いて、「ハクイとシュクセイの兄弟は、ともに、殿様の位を譲り合って身を引き、食べるものもなく飢え死にしてしまいましたが、それで二人は満足だったのでしょうか?怨みを残したのではないでしょうか?」と質問した。これに対して孔子様は、「二人とも自分の信念に従って殿様の位を譲り合い、命を全うしたのだから、誰を怨むこともなかったよ。互いに譲り合って困っている人がいたら助けてあげようと思うが、奪い合って喧嘩している人とは、関わりあいたくないね」と答えた。これを聞いた子貢は冉有に、「先生はどちらも助太刀しないよ」と伝えた。
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〔 親御さんへ 〕 |
論語には、背景を知らないと、何を云っているのかさっぱり訳の分からない所がいくつもありまして、この章などもその代表例です。「論語など読めば分かる!」と豪語する人にたまに出会しますが、「ならばここを解説してくれ?」と云うと、「ウーム!参った!」となる。
中には史記の「伯夷列伝」や朱子の集注(しっちゅう)を読んでいる人もいて、それなりの解説はしてくれるのですが、子貢が「孔子は輒を助けない」と判断した決め手は何だったんでしょうね?と問うと、大概詰まってしまう。推理するしかありませんから。
子貢がどのような理由でこう判断したのか?本当の所は本人しか分かりません。私は、伯夷・叔斉の譲り合いと、聵蒯・輒の奪い合いが子貢の判断の決め手になったのではないかと考えておりますが、的外れかも知れません。百回読んでも分からない所いっぱいあるんです、論語には。「読めば分かる」なんて生意気な口はきけないんですよ、恐くて。
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