〔
原文
〕 作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
顔淵死、顔路請子之車、以爲之椁。子曰、才不才、亦各言其子也。
鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁、以吾從大夫之後、不可徒行也。
|
〔 読み下し 〕 |
顔淵死す。顔路、子の車以て之が椁を為らんことを請う。子日わく、才あるも才あらざるも、亦各々其の子と言うなり。鯉や死す、棺有りて椁無し。吾徒行して以て之が椁を為らざりしは、吾が大夫の後に従えるを以て、徒行すべからざるなり。
|
〔 通釈 〕 |
顔淵が死んだ。父の顔路は先生の車を譲ってもらって、それで外(そと)棺を作りたいと請うた。これに対して孔子は、「馬鹿は馬鹿なりに、利口は利口なりに、我が子は皆可愛いいものだ。親の情が分からん訳ではないが、息子の鯉が死んだ時も、内棺だけで外棺はなかった。
私が自分の車を売って、徒行してまで息子の為に外棺を作らなかったのは、これでも私は大夫の末席にある立場なので、徒行して出仕する訳には行かなかったからだ」と云った。
|
〔 解説 〕 |
顔路とは顔淵の父、姓は顔 名は無繇(むよう) 字は路。孔子の6才下で、弟子の中では孔子に一番年が近く、冉伯牛(7才年下)と同世代の旧くからの弟子でした。
棺とは内棺、椁とは外棺のことで、当時身分ある人の棺桶は、内棺と外棺の二重棺にしたようです。日本の皇室の棺桶は、今でも棺と椁の二重棺のようですね。(昭和天皇の大葬の礼をご覧になった方は覚えているでしょう)
「才あるも才あらざるも、亦各(おのおの)其の子と言うなり」とは、誠に味のある言葉でありまして、こういう所が人間通孔子の何とも云えない魅力ですね。
孔子晩年は官職を退いておりましたが、国老として毎月一日には朝廷に出仕していたようです。論語に哀公との会話がしばしば登場しますが、これはその時に交わされたものでしょう。
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
愛弟子の顔淵が死んだ。顔淵の父親の顔路は、先生の車を売って立派な棺桶を作って欲しいとお願いした。これに対して孔子様は、「できの良い子も悪い子も、我が子はみんなかわいいものだ。子供の為に立派な棺桶を作ってやりたいという君の気持はよく分かる。しかし、私の息子の鯉が亡くなった時も、立派な棺桶を買おうとしなかったのは、何も車がおしいからではない。君も知っている通り、私は今でも大臣の末席に連なっている。大臣がお城に行く時は、身の安全を守る為車で出勤するのが決まりになっていて、歩いて行くのはルール違反になるからなのだよ」とおっしゃった。
|
〔 親御さんへ 〕 |
いくら年が近いからと云って、自分の師匠に対して「先生の車を売って、子供の為に立派な棺桶を買ってくれ!」などと云うのは、今の感覚からすれば何と厚かましいことだろうか?と思われるかもしれませんが、当時は、「朋友の間は共に財を通じ合う」つまり、困った時はお互いに融通し合うというのが当たり前の習慣で、特別に顔路が厚かましかった訳ではないようです。以後何章かに渡って、顔淵が死んだ時の様子が語られております。
|