述而第七 171

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原文                 作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、三人(さんにん)(おこ)なえば、(かなら)()()あり。(その)()(もの)(えら)びて(これ)(したが)い、()()からざる(もの)にして(これ)(あらた)む。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「三人が共に行動すると、必ずその中に手本とすべき者がいるものだ。善なる者を択んで之を良きお手本とし、不善なる者を見たら、自分にもその様な所がないか反省して改める。かくすれば、師たる人は至る所に居るものだよ」と。
 
〔 解説 〕

悪しき手本も「反面教師」として見れば、なるほど孔子の云うように、「我以外皆師也」といえますね。人は自分に似た人間を見ると、本能的に嫌う習性があるようで、何故だろうか?と考えてみますと、自分の嫌な所を、相手が鏡に映し出すように演じてみせてくれるからなんですね。

マー姫が外務大臣の頃、外務官僚に対して隠然たる力を持っていたムネ坊と大ゲンカをやらかして、スピッツみたいにキャンキャン吠えまくっておりましたが、あれは、マー姫自身の嫌な影をムネ坊の中に見出したからなんですね。二人ともそっくりな「風」を醸し合っているんですよ。虚言癖しかり、不見識しかり、無定見しかり、無節操しかり、早口しかり・・・と。ただムネ坊の方が苦労しているだけに、少し大人でしたね、あのケンカは。


これは何もあの人だけが特別なのではなくて、万人にある心理なんです、自分に似た人を
嫌うというのは。人は他人の欠点はよく見えますが、自分の欠点には中々気がつきません。だから、自分と似たような人がいて、その人が反面教師となって、自分の欠点に気付くよう演じてくれているのではないでしょうか。

その人を尊敬しろとは申しませんが、「イヤだ!」と決め付ける前に、「かたじけない!」という位の余裕を持ちたいものですね。我が侭で、・自己中心で・お天気屋で・利己的で・雑賤で・冷酷な一面は誰にでもあるんですよ。あの人がまとめて演じてくれているだけなんですね、反面教師として。

だから、日本人は全員があの人に感謝しなくてはいけない。日本人の鑑(かがみ)ですからね、逆さの。ああ、これはHPに載るのか。まあいいでしょう、孔子も「郷原は徳の賊なり」と云っているから、八方美人になどなる必要はない。そもそもマー姫は「論語」など読みはしません。佐藤一斎の「重職心得箇条」を論語と間違うくらいだからね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「友達(ともだち)三人(さんにん)(おな)じことをすると、(かなら)ずその(なか)にお()(ほん)ある。()いお()(ほん)(わる)いお()(ほん)がね。()いお手本(てほん)はすぐ真似(まね)なさい。(わる)いお()(ほん)は、自分(じぶん)にもそういう(ところ)がないか反省(はんせい)してみなさい。()いことからも(わる)いことからも、両方(りょうほう)から(まな)べるんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

「見聞皆師・(見るもの聞くもの皆師なり)」という心境になれたら、腹を立てる事もないし、張り合うこともないし、円満に生きられると思うのですが、中々こうは行きませんね。子供は良いお手本は真似ず、悪いお手本をすぐ真似る生きものですから、一番身近な師である親は、ボーッとしていられません。

「どうして家の子はこうなんでしょうねえ!?」というから、どんな子かと思ってじっくり観察してみると、何のことはない、親にそっくりだったりする。親が気付いてないだけなんですね、自分のことを。「子は親の鑑(かがみ)」ですから、良いことも悪いことも、必ず親を真似て育ちます。だから親はボーッとしてなんかいられないんですよ。親がボーッとしてたら、子供もボーッと
した子に育つ他はないんです!
 

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