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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
子見南子。子路不説。夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之。
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〔 読み下し 〕 |
子、南子を見る。子路説ばず。夫子之に矢いて曰わく、予が否なる所の者は、天之を厭たん。天之を厭たん。
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〔 通釈 〕 |
孔子が衛の霊公の夫人南子と会見した。子路はこれに極めて不愉快な態度を示して不服を唱えた。これに対して孔子は、「もし私にやましい所があるならば、天が私を見捨てるであろう、天が私を見捨てるであろう」と云った。
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〔 解説 〕 |
南子(なんし) 衛の霊公の夫人で前出の美男子宋朝は南子の密男(まおとこ)。史記ではこの時の様子を、「夫人は麻の帷(とばり)の中にいた。孔子は室に入ると北へ向かって額(ぬか)ずいた。夫人は帷のかげで二度会釈した。彼女の珮玉(おびたま)のからりと鳴る音が聞こえた」と、南子の妖麗な様を伝えている。司馬遷の創作も多分にあるのでしょうが、この程度のフィクションはあった方が却って面白い。
孔子は、道徳の干物でも倫理の化石でもありませんからね。南子が宋朝と通じていることは衛では周知の事実で、顰蹙を買っていた南子は、既に高名であった孔子と会見することにより汚名を挽回しようと思って、再三孔子を招こうとしますが孔子が中々乗って来ない。そこで一計を巡らし、「衛公と誼(よしみ)を結ばれる方は、妃である私に面会するのがこの国の仕来たりです」と伝える。
こう云われれば、孔子と雖も断りきれず、仕方なく南子を表敬訪問した。というのが真相のようです。孔子が鼻の下を長くして出掛けて行った、というのではないんですよ。それにしても、たかが悪評判の女と面会した位で、「予が否なる所の者は、天之を厭たん!天之を厭たん!」などと大袈裟に弁解するとは、余程子路に激しく詰め寄られたのでしょう。
「お前達の心配する事ではない!」と一言云っておけば済むものを、「天之を厭たん!・・・」などと云うものですから、弟子達は余計「何かあったな?」と勘ぐりたくなる。実際に何があったか分かりません。2500年も前のことですから。それにしても弟子達はよくこんな記録を残しておいてくれたものです。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が弟子達に内緒で、衛の殿様のお妃で評判の悪い南子に会いに行って来た。帰った所を弟子の子路に見つかって、「せっ、先生!まさかあの南子に会いに行って来たのではないでしょうね!?」と詰め寄られた。子路のあまりの剣幕に驚いた孔子様は「私は天に誓ってやましいことはしていない!イヤラシイことはしてないってば!!」と、必死に子路をなだめた。
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〔 親御さんへ 〕 |
こんな文章を弟子達はよく残したものだと思います。
仏典や聖書では、殊更教祖の無謬化・神聖化が為されておりますから、釈迦やイエスにまつわる俗っぽいエピソードは、全部削り取られてしまっている。新約聖書も、初めは膨大な分量があったと云われておりますから、イエスにまつわる面白いエピソードも多数残っていたのでしょうが、4世紀のニケーア公会議で、無謬化・神聖化に都合の悪いことはバッサリと削り取られてしまって、十分の一以下になったと云われます。(新約聖書には、前後が全くつながらない文章がいくつもあって、削り取られたことがはっきりと解ります)私などはマグダラのマリアとイエスのラブストーリーがあれば、聖書ももっと広く読まれるのに・・・、と残念に思うのですが、不謹慎ですかな?
宮崎市定は、「天之を厭たん」は誓いの際の当時の常套句であろう、としておりますが、何でこの程度のことで弟子の前で誓わねばならんのか?孔子も人の子ですから、一度妖麗な南子に会ってみたい!という気持ちもない訳ではない。そこを年齢の比較的近い子路に見透かされてしまったものですから、返答に窮してこのように大袈裟な表現をする他なかった・・・。まあ命がけの言い訳ですね。相手が子路でなかったら、こんな言い方はしなかったでしょう。純情なんですよ、孔子は。擦れていないんですね。
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