学ぶとは

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「学ぶ」とは具体的に何なのか。論語と高野先生の解説から考える。


そもそも人間とは何か、学ばないとどうなるのか
 

 「有教無類」・・・・・衛霊公第十五427

人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない
  貴賎の身分制度が厳格に布かれていた当時としては、革命的なことを述べているのでは ないで
しょうか?「血筋によって貴賎が決まるものではない!」といっているのですから。

福沢諭吉は本章を「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と解した。 では一体何で
人に貴賎の差がつくのかと云えば、教育の如何だ!と孔子は断言する。  

つまり、教育の如何が人物を決めるということです。私がここで云う貴賎とは、身分の上下を示すものではなく、人格的な意味での気高さ卑しさという意です。知識や技術のみならず、この気高さ高潔さを教えるのが「全人教育」なのですが、今は家庭でも学校でも殆ど教えなくなった。

ここ数年来「国家の品格」・「女性の品格」・「男の品格」等々、品格を冠した書籍がベストセラーに
なっておりますが、これなどは全人教育がなされなくなった反動でしょう。戦前であれば「修身教育」が徹底されておりましたから、品格など当たり前過ぎて売れなかったでしょうね。日本国中が飢えているんです、気高さ・潔さ・品位・人格を育む「全人教育」に。全人教育という言葉もいいねえ、知・情・意の円満な発達を促す教育、「全き人を育む教え」という意味ですからねえ


教育改革で道徳教育が復活するのはいいことですが、道徳教育の目的は「全き人を育む」ことにある訳ですから、これは難しいねえ?教科書は誰が作るんだろう?誰が教えるんだろう?親も祖父母もできなくなっているのに…。不道徳なら教えられるけど…。

これはやっぱり「論語」をテキストにして、歴史上の偉人や英雄の物語を織り交ぜながら教えて行くしかないのかな?当会のホームページが道徳の教科書になる!なんてことはないか、バカ話しばかりしているからねえ。まあ、品行不方正の塊みたいなもんだな、私は。 「交尾が先!後悔は後!」なんて云ってるんだから。

     孔子は、「人間は能力、資質が無差別で平等である」などという
    理想主義はとらない。机上の理論を廃し、現実を直視した。

 

 「性相近也、習相遠也」・・・・・陽貨第十七446

人間の本性は元々似たり寄ったりであるが、習慣によって月とすっぽん程の人物の差ができてしまうのだ
  総ての人間は神の分霊(わけみたま)・分身ですから、万人に神の種、つまり神と同じ性質が宿されている。一人一人が神の多様な一面を演じている為、一見するとバラバラに分離独立した存在に見えるけれども、元は一緒、一つのものなのだ!と孔子の目には映っていたのではないでしょうか。これは、釈迦の「一切衆生悉有仏性(一切の存在に仏性が宿る)」と同じ考え方です。
 
  「困而不學、民斯爲下矣」・・・・・季子第十六439

生まれながらにして之を知る者は、上(じょう)なり。学びて之を知る者は、次なり。困(くる)しみて之を
学ぶ者は、又其の次なり。困しみて学ばざるは、民斯(これ)を下(げ)と為す。
  全一学の故森信三先生は、「真理は現実の只中にあり!」と看破しておられますが、現実を偶然の出来事と捉えるか、自分に与えられた課題と捉えるか、逃避するのか?受けて立つのか?心の姿勢がその人の人格と人生、つまり運命を決めてしまう。

心(思い)が原因で人生(運命)は結果。原因―結果の法則は誰も晦ますことができません。この
原因―結果の法則のことを道理という訳ですね。

良い種を蒔けば良い実がなり、悪い種を蒔けば悪い実がなる、というのも道理。良い実も悪い実も、自分が蒔いた種ならば、自分自身で刈り取らなければなりません。誰も晦ますことができません。これも又道理です。

まあ人生とは、日々種蒔きをし、日々刈り取りをやらされているようなものなんです。逃げる訳には
行かないんですよ!孔子から「民これを下となす、サイテー!」と言われないようにしましょう。

 
 森信三先生は、
「時を守り、場を清め、礼を正す」ことを提唱しました。
 
    
生きとし生けるものは、時間、空間、人間(じんかん)の 三間を離れてこの世に存在する
  ことはできません。この三間を大切にし、整えていくことを、 現場を再建する
  三大原理と森先生は提唱され、 荒れた学校の指導で大きな実績を上げられました。

    子供を対象にするなら、
       @五分前行動 A整理整頓と掃除 B脱いだ履物をそろえる・挨拶をする。
  

  真理は難解な理論ではなく、身近にあるようです。
 
 「上知と下愚とは移らず」・・・陽貨第十七447

身・口・意の習慣が人物を作り上げることを知らず、放ったらかしておくと、良き習慣の者は益々良く、
悪しき習慣の者は益々悪くなってしまう。こうなるともう取り返しがつかないと
  人様の習慣はよく見えるけれども、自分の習慣は人に指摘されないと中々分からないものです。
こういう時に頼りになるのが、ズバリと直言してくれる友ですね。

家族ではお互いに我儘が出ますから、指摘されても「うるさい!」となって、あまり効き目がありません。他人に指摘されると、「ほう?人はそう見ているのか!?」となって、改める気になる。
 

何のために学ぶのか
 「学如不及、猶恐失之・・・泰伯第八204

学問というものは、どれ程やっても追い着けなくて、もうこれで良い!ということのないものであるが、やり
続けているうちに目的と手段がすり替わっていないか?本末転倒してはいまいか?と、常に気に かかる
ものである   
   
学問の目的は「真理を探求し、究明し、人類進化に役立てる」ことにあります。人類進化に役立てるとなれば、「そもそも人とは一体何ぞや?進化とは一体何ぞや?」を究明しなければならなくなる。

人とは何ぞや?進化とは何ぞや?を究明するとなれば、長年そういうことを研究している師につくか、或は先人の研究結果を文献に求めることになる。師につくにしても文献に求めるにしても、
聴いて分かり読んで分かるだけの理解力と思考力が要る。

理解力・思考力を身につけるには、それ相応の知識と経験の蓄積が必要となる。知識と経験を
蓄積するには、読み・書き・計算等の基礎的学力と、生きて行動する為の基礎的体力が要る。
195章で紹介した元服迄の児童教育が、この基礎の部分に当るでしょうか。

     
人間とは何か、進化とは何か・・・合同例会の講義録より

    人間存在の実相

    一、人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。
    二、魂は神の種を宿した永遠不滅の存在であって、
    三、生まれ変わり死に変わり即ち輪廻転生を
繰り返しながら無限の進化を遂げて行く。


  人間存在の実相が人々に認識されると
 
  
  一、肉体我・感情我・思考我に翻弄されることがなくなる。、
  
  二、分かち合い、許し合い、助け合うことが当たり前の相生和合の領域に入る。
  
  三、そして、お互い様とお蔭様の気持ちで生かし合う、自他一体の領域となる。
    四、生かされていることに感謝しながら無限の進化を遂げ、大調和の世界が現出する。
 

何を学べばよいのか
 
 「徳に拠り、仁に依る」・・・・・述而第七156

人として正しい道を踏み行なうよう心掛けなさい。そして人格(徳)を磨きなさい。徳の実践はすべて
仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ 悠々と生きる。これが人生の王道だ。
 
  論語開眼で「徳は全て仁ベース、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信である」と申しましたが、孔子はここで「徳に拠り、仁に依る」とはっきりと述べております。

芸とは六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)のことで、当時の教養とされておったものですが、
孔子は、道に志し、徳に拠り、仁に依り、その上で游芸・豊かな教養を身につけよ!と云う。

うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな章ですが、孔子の人生観というか人間観というか、人間の
捉え方を理解する上で、きっちりと腑に落しておかなければならない大切な章です 。

「その1」
  技術や知識も大切ですが、根本は徳(仁・義・礼・智・信)を磨き、実践する事です。すべての
  徳は仁がベースです。実践するから徳となるので、行動がなかったら 物知りおじさんでしか
  ありません。論語に学ぶ会のHPの「論語を学ぶ前にの徳と中庸」をご覧ください。

   
https://rongoni-manabukai.jp/kaigan-2011_1.htm

   

「その2」
  人と成るためには、人間が生まれながらにして与えられている徳性を育成する学問が必要
  です。これを人間学といいます。これに対して、知識、技術を習得するための学問を時務学と
  いいますが、昔は、学問といえば人間学のほうを指し、時務学のほうは芸といっていました。  
 (幹は人間学で、枝葉が時務学です)

   
私が小学校に通っていた戦前は、自己をしっかりと修めていくため、修身という学科が最も
  重視されていました。ところが戦後は、占領政策によって国の教育方針が大きく変わり、
  学科の中から真っ先に修身が廃止されました。したがって、自己を修める学問がなくなって
  しまったのです。
                                          「致知2010年7月号」 論語普及会学監 伊與田覺

「その3」
  明末の儒学者、呂新吾はこう言いました。
  「学問の要訣はただ八箇の字にあり。徳性を涵養し、気質を変化す」

   
人が学ぶのは思いやりや誠実、勤勉、忍耐の心といった徳性というものを養い育て、悪い
  気質を良い気質に改めてゆくのだ、と云っている。私達は人間性を練り、自らの人格を高め、
  深めてゆくために学ぶ 。
                                           「致知2010年11月号」 致知出版社長 藤尾秀昭

「その4」
   近代経済学の祖、アダム・スミスは、神学と哲学を履修していない学生には、けっして経済学
    を教えなかったそうです。お金を扱う学問が独り歩きすると、おかしな世の中になると分かって
    いたのでしょう。アダム・スミスの精神が引き継がれていたら、デリバティブは生まれなかったはず
    です。西洋での人間学は「神学・哲学」、時務学は「経済学」。 
 


幼児教育の基本

  
 「詩(言葉)・礼(躾)・楽(音楽)」・・・泰伯第八195

詩(言葉)によって情緒の発達を促し、礼(躾)によって社会の規範を身に付け、楽(音楽)によって豊かな情操を育む。これが児童教育の基本である
 
 
「礼記」の内則(だいそく)篇(家庭内教育の意)にある子供の教育順序

@ 子供が自分で物を食べられるようになったら右手で食べるように教え、
     しゃべられるようになったら男の子には“唯(い)”女の子には“兪(ゆ)”と
     返事をするように正しい言葉づかいを教える。

A 6才になったら数の数え方と方角(東西南北)を教える。

B 7才になったら男女を同じ席に坐らせず、一緒に食事をしない。

C 8才になったら家や部屋の出入りの仕方(起居振舞)や、飲食する時に年長者に
    上座を譲る作法を教える。

D 9才になったら暦の読み方を教える。

E 10才になったら寄宿舎に入れて読み・書き・算盤を習わせる。初めの躾が
     肝腎なので、幼いうちから朝夕礼儀作法や挨拶の仕方を教えるのである。

F 13才になったら音楽を学び、詩に節をつけて歌い勺(しゃく)の曲を舞う  

  正しい言葉づかい→礼儀作法(躾)→音楽の順に教えて、基礎教育が成る。

G 15才になると愈々本格的な学問の道に入り、「成人(15才)すると射・
     御を学び、20才になると冠をつけて初めて公式の礼制度を学ぶ。

古代から優れた児童教育の課程を集録した「小学」に、「童稚(どうち)の学は記誦(きしょう)に止まらず。其の良知良能を養うには、当(まさ)に先入(せんにゅう)の言を以て主と為すべし(子供の教育は単に暗記暗誦をするだけに止まってはいけない。本来その子の持っている知性や感性を養い育むには、初期に何を語り何を聞かせるかが肝腎である)」とあって、幼児に語る言葉を吟味せよ!と説いている。

人間の情緒の形成は、3才〜5才頃迄にほぼ決まってしまうと云われておりますから、それだけ幼児に語りかける言葉は重要です。孔子の頃の魯には、幼児に言葉を教える際、いくつかの「童歌(わらべうた)」や「言葉あそび」のようなものがあって、詩経の文言が引用されていたのではないでしょうか?

 
 「時習」・・・・・・・・・学而第一001

何事も徹底した反復練習をしないと、身に付かない。
 
  親の、子に対する贈り物の中で最良最大のものは、子供に良き習慣を身につけさせることである」と申し上げました。又、子供が小学生のうちにきちんと躾けておくべきものとして

@ 時間(約束)を守る習慣を身につけさせる。
A 整理整頓の習慣を身につけさせる。
B ちゃんと挨拶できる習慣を身につけさせる。

  補足として

1) 朝起きたら家族全員で「オハヨー!」の挨拶。
2) 決められた時間の5分前にスタンバイ。
3) 履物を脱いだらきちんと揃える。
4) 呼ばれたら「ハイ!」と素直な返事。
5) 好意に対して「ありがとう!」の感謝の言葉。


  
 スポーツや楽器の練習に限らず、徳の習得には地道な 反復練習が欠かせません。
   顔淵だって、初めは怒りっぽくて そそっかしい性格だった ようです。しかし学んて、
   繰り返し、 実践を通じ、己を矯め直していきました。  
・・・ 雍也第六123 

 
 「基礎が大切」・・・・・ 泰伯第八199 子供論語

学問の道は奥が深くて、何年やってももうこれでいい!ということはないが、テーマを決めたら三年を一つの区切りとして、集中的にやってみなさい。最初の三年間が基礎を固める上で特に重要だ。何をやるにしても『石の上にも三年』というからね
 
  ピアノ教室でも水泳教室でも、書道塾でも珠算塾でも、一旦通わせたら、才能の有る無しにかかわらず三年位はじっくりとやらせてみないと、基礎が身につきません。

中には器用な子供もいて、基礎をしっかりやらなくても一通りこなす子もおりますが、実はこれが落とし穴なんですね。親の欲目で、うちの子は才能がある!と勘違いしてしまうんです。

器用な子は始めはパッと華やかに見えますが、基礎がしっかり身についていないと、ある所でパタリと進歩が止まってしまう。ウサギとカメの童話のように、ある時点で、コツコツと地道に努力して来た者に必ず追い越されてしまう。

この時、親も子ももう一度基礎からやり直すことに気付けば良いのですが、親の欲目と子のうぬぼれで、あれがダメならこれがある!これがダメならそれがある!とばかりにダメの梯子をした挙げ句、結局は何一つモノにならず、すべてが中途半端な器用貧乏で終わってしまうこととなる。

お子さんにはどうかしっかりと基礎を学ばせて下さい。基礎知識・基礎体力・基礎技術を身につけさせてやって下さい。余程特異な才能でもない限り、基礎を疎かにした子は伸びられないんです。

 
 「 文・行・忠・信」・・・・・ 述而第七174
 
孔子の教育方針は

              子供の場合              大人の場合
    一、文  本をよく読むこと       ⇒ 古典の教養を身につける
    二、行  口先だけでなく実行すること⇒ 徳を実践する
    三、忠  人に親切にすること     ⇒ 何事も誠実に対処する
    四、信  約束は必ず守ること     ⇒ 言を違えない 

の四つであった。

 
 
古典が大切 
 
 「温故知新」・・・・・為政第二027

古いこと(古典や歴史)を学んで、そこから現代に通用する新しい意義を見出すことができれば、立派な指導者になれるだろう
 
  『論語開眼』でも述べましたが、論語の魅力を一言集約してみるならば、「あなた次第あなた任せの書」・「強く叩けば強く鳴り、弱く叩けば弱く鳴る。深く叩けば深く鳴り、浅く叩けば浅く鳴る」という所にあると云えるでしょう。

『古くて古いだけのものは滅ぶ。新しくて新しいだけのものも亦滅ぶ。古くて常に新しいものこそが栄える』と申しましたが、「温故知新」とはそういうことだと考えてもらって宜しいかと思います。

2500年前の孔子の言葉を、現代の自分の身に置き換えて考えてみるからこそ、そこに新しい意義が発見できる、つまり、為になって役に立つ「活学」となるのでありまして、受験勉強のように正確に文章を覚えて知識を増やすだけであったら、為にはなるが役には立たない「死学」になってしまいます。
 
 「述べて作らず」・・・・・述而第七151

私は古来から伝わる先王の道を祖述するだけであって、新説を創作しているのではない。いかに古いことであろうとも、正しいものは正しいと信じ、好んで顕彰しようと心掛けている。
 
  「歴史は例証からなる科学である」と云われますが、歴史が科学であるというからには、そこに何らかの必然性・原因結果の法則が働くということでしょう。歴史学者の故会田雄次先生は、生前大変興味深いことを語っておられます。曰く、「半世紀以上歴史を研究して来て分かったことは、歴史とはその95%以上が必然性を持っているという事実である。偶然としか思われないものは5%以下に過ぎない」と。

固有の歴史や伝統文化を重んじ、時代を超えて正しいことは正しいと信じて保ち守ることを「保守」と申しますが、保守とは換言すれば、孔子の云う「信じて古を好む」ことである!と云えるでしょう。
 

学びのポイント
 
 「学びて思い、思いて学ぶ」・・・為政第二031

学ぶだけで、じっくりと自分の頭で思索してみなければ、真に活きた学問とはならない。逆に、自分の頭で思い巡らすだけで、博く学ぶことをしなければ、危なっかしくて頼りにならない
 
  「学びて思い、思いて学ぶ」というのは、学問をする際の要諦でありまして、「学ぶだけ」・「思うだけ」では、さっぱり身に付かないし・思考力が鍛えられないんですね。「学ぶだけ」ですと、パブロフの犬のように、ただ反応するだけの頭になりますし、「思うだけ」ですと、井の中の蛙のように、偏狭な頭になってしまいます。

 
 「実践そして実践」・・・・・ 公冶長第五 106

子路は、師から教わったことを実践しようと心掛けておったので、まだよく実践できないうちは、次の新しい教えを聞くことを恐れた
 
  不登校児や高校中退者の為に「師友塾」を開いている大越俊夫先生は、その著書「6000人を
一瞬で変えたひと言」の中で、「変わる人は一秒で変わる。変わらない人は十年かけても二十年かけても変わらない」と述べ、更に「百知って何もしないより、三知ってその三つを実践する方がいい!」と語っておられる。「子路の回心・子路の実践」も、要はこういうことなんですね。
 
 「博文約礼」・・・・・雍也第六147

人の上に立つ者は偏らないように幅広く学び、学んだことを秩序立て要約できたなら、まず以て正道を踏み外すことはあるまい。
 
  「博文約礼(はくぶんやくれい)」とは、広く学んで秩序立てて要点を整理すること。反対に、「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」とは、中身がないのにこまごまとしてやたらに煩わしいこと。

広く学んでも、約礼ができないと何事も要領を得ません。約礼は訓練しないと身につきませんから、国語の時間に「文章を読んで200字以内に要点を述べよ」とテストされるんですね。
 
 「学生の心得」・・・・・子張第十九486

日に月に、未知であったことを知るように努め、知り得たことを忘れないようにする。こうであってこそ真に学問好きと云うことができよう       
 
 
 「博学・篤志・切問・近思」・・・子張第十九487

広く学んで己の志の確信を深め、深刻な問題はとことん探求して、身近な現実に引き寄せて思索する。真理は現実の只中にあるものだ
 
  ここで云う仁は、仁の徳の意ではなく「真理」と捉えたら良いでしょう。仁徳と解すると意味が通じなくなります。

子夏は実践を重んずる人でしたから、真理の探求を机上の空論で済ますことを嫌った。真の学問は、為になるだけではダメで、為になって役に立つものでなければならないと考えていたようです。

学問の目的は真理の探究、真理は身近な現実の只中にあり!と看破したのでしょう。子夏はここで学問(真理探究)の心得を、博学―篤志―切問―近思の四段階に分けて論じている。

  博学とは、偏らず幅広く学ぶこと。
  篤志とは、幅広く学ぶことによって、志を揺るぎないものにすること。
  切問とは、揺るぎない志の下で深刻な問題に立ち向かうこと。
  近思とは、亀毛兎角の空華論にならぬよう身近な現実に引き寄せて思索する
                      こと。

かくすれば、真理は身近な現実の只中にあることが分かる。子夏流に云えば、これが学問の心得である!ということですね。

 
 憤せずんば啓せず、非せずんば発せず・・・・・述而第七158

問題意識をもって自ら取り組もうという情熱ない者は、ヒントを与えてもピンと来ない。解決の糸口を見出そうと粘り強く努力する根気のない者は、 何を教えても身につかない。喩えて云えば、四角いものの一隅を教えたら、あとの三隅を試行錯誤しながら解明する位の意欲がなければ、何一つものにならないのだ。
 
  問題意識を持って学ぶのと、うすぼんやりと学ぶのとでは、その結果に於て雲泥の差が生じて来ます。更に問題意識を持つにしても、正しい問題意識を持つか、誤った問題意識を持つかによって、その人物の涵養に於て月と鼈(すっぽん)の差が出て来る。

正しい問題意識を持てば、その時点でもう答えの半分が出たようなものです。一方誤った問題意識を持ったら、益々迷路にはまり込み問題を増幅させてしまう。

この章から「啓発(けいはつ)」という言葉が生まれますが、啓も発もともに「ひらく」という意味です。ひらくが二つ重なっておりますから、一つ開くと次から次へと連鎖反応が起きて、意識の拡大作用が起こることになる。これが「啓発」の真の意味です。

では、意識の拡大作用を引き起こす起爆剤は何か?と云えば、これが正しい問題意識なんですね。誤った問題意識では起爆しないんです。

 
 「之を如何、之を如何」・・・衛霊公第十五404   

なぜだろう?どうしてだろう?と常に問題意識を持たぬ者は、私としてはどうしようもない。
 
  問題意識を持たぬ者はどうしようもない!と孔子は云う。ただ、問題意識にも正しい問題意識と間違った問題意識がありますから、問題意識なら何でも良いということではありません。

間違った問題意識とは、無知による誤った前提から発する問題意識のことでありまして、これではどこ迄行っても正しい答えは得られません。インプットを間違えば正しいアウトプットが得られないのと同じです。スルメを解剖してイカを研究しようとするようなものですね。

先入観念や固定観念を無自覚・無前提に正しいと信じ、更にこれを前提として問題の是非を断じてしまうからね、我々凡人は。先入観念や、固定観念の間違いを指摘されて、「ああそうか!」と気付くのなら救いようもあるけれど、こういう人は稀で、大半が「聞きたくない!」と耳を塞いでしまうか、「価値観の違いでしょ?」と逃げてしまう。こうなるともう手の施しようがありません、孔子の「吾之を如何ともするなきのみ」ですね。

正しい問題意識を持てば、正しい答えが得られる。逆説的に云うと、正しい答えを得たければ、正しい問題意識を持ちなさい!ということだね。つまり、問題意識を持つことは大いに結構だが、どのような問題意識を持つか?その中身の如何で、同時に自分の認識力が問われているということです。
 

追加

 社会規範について・・・里仁第四079

礼節と譲り合いの精神を以て国を治めるならば、国を治めるぐらい何の難しいことがあろうか。もし国を治めるのに、礼節も譲り合いの精神も欠いていたら、如何に制度が整っていたとしても、何ともならんものだ

 
礼節や謙譲の精神は一人一人の心掛け次第であって、法律で取り締まる訳には参りません。法律に規定されていなければ何をやってもいいとなりますと、世の中は利己心の吹溜まりとなって、欲と欲の相克する修羅場と化してしまいます。これに「待った!」をかけるのが道徳なんですね。

道徳とは、自分で自分を律する規範ですから、道徳観念のしっかりしている社会程コストがかからない。法律を犯せば刑罰が待っていますから、ある程度セーブがかかりますが、道徳を犯しても何の刑罰もありませんから、煩悩剥き出しの社会を招来しかねない。

道徳を犯した時、法を犯した時の刑罰に相当するものが、実は恥を知る心「廉恥心」なんですね。廉恥心とは喩えてみれば、「内なる裁判官」と云っていいでしょう。

恥という字も面白いですね、分解すると耳+心ですから、「自分の心に耳を当てて、内なる良心の声を聴け!」とも解釈できます。やはり「内なる裁判官」ですよ。恥を知る心は、子供の頃から植え付けられていないと、中々育たないものです。

人間から「恥」というものを取り去ったら、裸のサルですね。何が美徳で何が悪徳か!美徳は誇り悪徳は恥!恥は心の裁判官!!これはしっかりと子供に教えておかなければなりませんね。
 

 

   
 少にして学べば、則ち壮にして為すことあり
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず
 老いて学べば、則ち死して朽ちず
                              
佐藤一斎 『言志晩録』第60条

 

 実学には三つある

  
@少学 10才〜20才  実用の学
         実務能力の向上とスキルアップをすると、30才〜40才で立派な
             仕事ができる。
   
A壮学 30才〜40才  実理の学  
      人物を磨き徳を磨くと、仕事をリタイヤしても老けこまない。
                       
B老学 50才〜      実相の学
     人間存在の実相。宇宙存在の実相を学び、魂を磨くと、永遠の命が
            あることが分かる。


   
人間存在の実相
     1) 人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。
     2) 魂は神の種を宿した永遠不滅の存在であって、
     3) 生まれ変わり死に変わり即ち輪廻転生を
繰り返しながら無限の
              進化を遂げて行く。

   宇宙存在の実相
      1) 「諸行無常」 万物は常に変化して少しの間も留まらない。
         
  「諸法無我」 すべての物質には実体が無い。  

     2)「三界唯心」
       自分の思いがすべての現実を創り出し、すべての環境を引き寄せる。


     3)「一切衆生悉有仏性」 「一切有情悉皆成仏」
        生けるものは神の種を宿した神の子である。人間も神と同様に、
       自らの意志と信念により、すべての現実を創り出している


     4)「自由意志と結果責任」
       すべての人間には、自分で自分の人生を開拓して行けるように、
            
魂が誕生した時から「心の自由」が与えられている。もちろん結果の責任も。