子張第十九 487

上へ

〔原文〕
子夏日、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣。

〔読み下し〕
()()()わく、(ひろ)(まな)びて(あつ)(こころざ)し、(せつ)()いて(ちか)(おも)う。(じん)()(ちゅう)()り。

〔新論語 通釈〕
子夏云う、「広く学んで己の志の確信を深め、深刻な問題はとことん探求して、身近な現実に引き寄せて思索する。真理は現実の只中にあるものだ」と。

〔解説〕
ここで云う仁は、仁の徳の意ではなく「真理」と捉えたら良いでしょう。仁徳と解すると意味が通じなくなります。

子夏は実践を重んずる人でしたから、真理の探求を机上の空論で済ますことを嫌った。真の学問は、為になるだけではダメで、為になって役に立つものでなければならないと考えていたようです。学問の目的は真理の探究、真理は身近な現実の只中にあり! と看破したのでしょう。

子夏はここで学問(真理探究)の心得を、博学―篤志―切問―近思の四段階に分けて論じている。博学とは、偏らず幅広く学ぶこと。篤志とは、幅広く学ぶことによって、志を揺るぎないものにすること。切問とは、揺るぎない志の下で深刻な問題に立ち向かうこと。近思とは、亀毛兎角(きもうとかく)の空華(くうげ)論にならぬよう身近な現実に引き寄せて思索すること。かくすれば、真理は身近な現実の只中にあることが分かる。子夏流に云えば、これが学問の心得である!ということですね。

南宋の朱子は、子夏の学問探求の姿勢に感銘を受けたのでしょう、呂祖謙と共同で編纂した書物に、論語のこの章からとって「近思録」と名付けた。コロコロと見解が変ることを「ブレル」と云いますが、コロコロとまでは行かなくとも、多少のブレは誰にもあります。全くブレがないという人などいないでしょう。

人の心は左右にブレたり、前後にブレたり、上下にブレたりする中でバランスを取りながら徐々に成長を遂げて行くものです。このバランスを取る時の要になるものが、志なんですね。皆さんは「志」などというと、香典返しの上書きをイメージするかも知れませんが、元は、志=心+之(し・ゆく、士と同義)で、心の向かう所・心が目標を目指して進み行くことの意です。

この要がしっかりしていれば、ブレの幅は小さくて済みますが、グラついていたら大ブレしてバランスを取ることができません。その要・志をグラつかせずしっかりと補強するものが「博学」・偏らず幅広く学ぶことである、と子夏は述べている訳ですが、やっぱりそうか!?という感じですね。

前章で、孔子の学問スタイルをそのまま受け継いだのは子夏だったのではないか?と述べましたが、やはりそうでした。師と仰ぐ大先生の生き様が博学 ― 篤志そのものでしたから、側に居た子夏がこれをお手本とするのは当然です、「師のように幅広く学んで志を揺るぎないものにしよう!バランスの取れた(中庸を得た)人物になろう!!」と。孔子はバランスの取れた人でしたからね。バランスが取れているのは大事なことです。‥‥‥と、ここまで原稿を書いて来て、ハッと気付いたことがありました。

何か重要なインスピレーションが来る時は、決まって右手の人差し指が左右に引っ張られるのですが、その不自然な動きがさっきから続いている。これは何かある!と感じて心を開いて(オープンマインドで)しばらく頭を空っぽにしておりましたら、「これか!?」と思い当たりました。本章結語の「仁在其中矣」は、「仁其の中(うち)に在り」と読み下さず、「仁其の中(ちゅう)に在り」と読むのが子夏の真意であることが分かりました。

「真理は中庸(中道)に在り」つまり、偏ったものではないということですね。孔子は中庸の徳を至高のものと考えておりましたし、釈迦が最初に悟ったのも中道でした。「真理は現実の只中に在る」と訳した方が文章としては力強くてカッコイイけれど、「真理は中庸に在り」が子夏の真意だったのです。

これは子夏60才の頃に弟子に語った言葉のようで、この頃には人生を達観できる境地にあったのでしょう。古注も新注も参考程度にして、それにあまり囚われないほうがいいですね。末尾が強調語の助詞「矣 (イ)」で終わっておりますし、矣は「!(エクスクラメーションマーク・感嘆符)と考えて良いから、「〜である!」と子夏が強く云い切った言葉を弟子が記録したものでしょう。

〔子供論語 意訳〕
()()が、学問(がくもん)心得(こころえ)は、一に(かたよ)らず(ひろ)(まな)ぶこと。二に意志(いし)(つよ)()つこと。三に疑問(ぎもん)中途半端(ちゅうとはんぱ)にせずとことん探求(たんきゅう)すること。四に(だれ)にでも()かる身近(みぢか)なことがらに(たと)えてみること。こうすれば、どんなに(むずか)しい問題(もんだい)でも、(かなら)解決(かいけつ)糸口(いとぐち)()つかるものだ」と()った。

〔親御さんへ〕
小学校から英語が必修になるそうですが、文部科学省は一体何を考えているのでしょうか?こんなバカなことを一体誰が云い出したのでしょうか? 人間の脳は母語で思考するということが既に脳科学で分かっておりまして、日本人の母語則ち国語がしっかり学習されていないと、刺激に反応することはできても、物事を深く考えることができない子になってしまうことも分かっている。これが今問題になっている帰国子女の学力低下ですね。

バイリンガル(二言語を併用する国)のカナダやスイスでも、小学校までは、カナダではイギリス系は英語・フランス系はフランス語、ドイツ系はドイツ語・フランス系はフランス語と、母語を徹底的に叩き込むそうで、その上で中学以降に第二言語を教えるようになっている。

ある校長に聞きましたら、欧米のような日本人学校のない所では現地の学校かインターナショナルスクールに入れるしかないが、どこでも日本語教室があるので毎日二時間そこに通わせてしっかり日本語をマスターさせるのが普通。一番ダメなのは、現地に日本人学校があるにもかかわらず、わざわざインターナショナルスクールに入れてオール英語での授業を受けさせるバカ親だ!と云っておりました。(アジア圏の主要国には殆ど日本人学校があるそうです)

インターナショナルスクールで学んで全く弊害のないのは、英語を母語とする小学生なのであって、日本語を母語とする日本人の小学生には大きな弊害です。英語など中学生になってから教えてやれば、充分間に合います。

英語学の世界的権威・渡部昇一先生だって、旧制中学に入ってから英語を始めたし、私の大学時代の友人でミルトン研究の第一人者がおりますが、彼女だって中学生になってから英語を始めた。私の一番下の娘がカナダに嫁いでおりますが、何の不自由もしていない。亭主の弁護士の手伝いをする為に専門用語を覚えなければならないとかで、三年間法律専門学校に行くと云っている。中学・高校とも英語が得意だった訳じゃない。

現地に日本人学校があるのに、我が子をわざわざインターナショナルスクールに通わせる親は、一体どういう神経をしているのでしょうか?親の見栄じゃないのかね!?英語ペラペラの子にしたいという。英語がペラペラでも、頭がバラバラになったらどうするの!?文部科学省がやろうとしているのは、これと同じですよ。英語に回す時間があったら、もっと国語をしっかりやりなさい!!

このホームページをご覧になっている人の中に、海外赴任の予定のある方がおられたら、どうかよく考えて下さいね、人間は母語で物事を考える生き物なのだと言うことを!母語(国語)を叩き込めるのは小学生までなのだということを!

現地に永住するつもりなら構いませんが‥‥、否、永住して何語を使うにしても、考えるときは三才まで育った言語環境を母語として思考しますから、どこに住もうと母語はしっかりと教えなければなりません。

フィリピンがいつまで経ってもパッとしないのは、タガログ語が母語(国語)なのに、無理矢理公用語の英語で授業をやっているせいなのではないでしょうか?人間には生まれつき優劣の差などないのだから、英語はペラペラになったけれど、頭がバラバラになってしまったんじゃないでしょうかねえ? 海外に出稼ぎに行くには英語を喋れた方が便利だろうけれど、出稼ぎになんか行かなくても、国民が安心して・豊かに・楽しく暮らして行ける、立派な国になりたいと思わんのだろうか?

私が大統領だったら、タガログ語のみを国語と公用語にして、英語とスペイン語は廃止するけどなあ?フィリピン人の誰も不自由しないでしょう。スペイン語も英語も、征服者の言語でしょう!何でそんな亡霊みたいなものに固執するのだろう。いつまで経っても輸出するのはバナナと出稼ぎじゃダメだよな。アロヨは何をやっているのかね!?
 

子張第十九 486 子張第十九 487 子張第十九 488
新論語トップへ