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原文
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作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月 |
子曰、三年學不至於穀、不易得也。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、三年学びて、穀に至らざるは、得易からざるなり。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「三年間学問を続けて、それでも仕官にあくせくとしない篤学の人物は、このご時世にはそう滅多にいるものではない」と。
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〔 解説 〕 |
この章は「三年間も学べば何がしかの境地を得ることができるものであって、何も得る所がないなどということは滅多にないものだ」と解釈する人もおります。この場合、穀を学徳或は境地と解する訳ですが、ちょっと無理があるようです。
当時魯の国ではまだ貨幣経済が発達しておらず(斉は既に貨幣経済が発達していたようですが)、俸給を穀物で支給しておりましたから、穀を俸給と解するのが自然でしょう。
晩年の孔子学園は、仕官の為のエリート養成所として広く認知されていたようで、純粋に学問をしたい人よりも、早くいい就職口を見つけたいと思って入門する人の方が、圧倒的に多かったのではないでしょうか。そういう生徒達を見て、「しょうがないなあ!?」という気持で漏らした一言ではないかと思います。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「学問の道は奥が深くて、何年やってももうこれでいい!ということはないが、テーマを決めたら三年を一つの区切りとして、集中的にやってみなさい。最初の三年間が基礎を固める上で特に重要だ。何をやるにしても『石の上にも三年』というからね」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
ピアノ教室でも水泳教室でも、書道塾でも珠算塾でも、一旦通わせたら、才能の有る無しにかかわらず三年位はじっくりとやらせてみないと、基礎が身につきません。
中には器用な子供もいて、基礎をしっかりやらなくても一通りこなす子もおりますが、実はこれが落とし穴なんですね。親の欲目で、うちの子は才能がある!と勘違いしてしまうんです。
器用な子は始めはパッと華やかに見えますが、基礎がしっかり身についていないと、ある所でパタリと進歩が止まってしまう。ウサギとカメの童話のように、ある時点で、コツコツと地道に努力して来た者に必ず追い越されてしまう。
この時、親も子ももう一度基礎からやり直すことに気付けば良いのですが、親の欲目と子のうぬぼれで、あれがダメならこれがある!これがダメならそれがある!とばかりにダメの梯子をした挙げ句、結局は何一つモノにならず、すべてが中途半端な器用貧乏で終わってしまうこととなる。
お子さんにはどうかしっかりと基礎を学ばせて下さい。基礎知識・基礎体力・基礎技術を身につけさせてやって下さい。余程特異な才能でもない限り、基礎を疎かにした子は伸びられないんです。親の欲目と焦りで、子供をダメにしてしまうことがよくあるんです。「あせらず、あわてず、あきらめず!」ですよ、子育ては。
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