述而第七 156

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(みち)(こころざ)し、(とく)()り、(じん)()り、(げい)(あそ)ぶ。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「人として正しい道を踏み行なうよう心掛けなさい。そして人格(徳)を磨きなさい。徳の実践はすべて仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ悠々と生きる。これが人生の王道だ」と。
 
〔 解説 〕

論語開眼で「徳は全て仁ベース、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信である」と申しましたが、孔子はここで「徳に拠り、仁に依る」とはっきりと述べております。

芸とは六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)のことで、当時の教養とされておったものですが、孔子は、道に志し、徳に拠り、仁に依り、その上で游芸・豊かな教養を身につけよ!と云う。

うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな章ですが、孔子の人生観というか人間観というか、人間の捉え方を理解する上で、きっちりと腑に落しておかなければならない大切な章です。知識や技術を身につけることも大切ですが、徳が磨かれていなかったらどうにもならん!仁に根ざしていなかったら何にもならん!ということでしょう。

若い時は中々これが分からなくて、粋がってみたり突っ張ってみたりするものですが、五十
過ぎると痛い程分かって来る。六十過ぎたらもう「人徳」でしか評価してくれないんですね、世の中は。肩書や名声などおまけみたいなもんなんですよ。七十過ぎて悠然としている様は格好いいけれど、ギラついた爺さんはうす気味悪いでしょう?何か妖怪みたいで。ただ、表向きは悠然と装った狸爺もたまにおりますから、油断はできませんがね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「正直(しょうじき)()きること。(ひと)()くすこと。(ひと)をいたわること。そして一所懸命(いっしょけんめい)勉強(べんきょう)すること。この(よっ)つが立派(りっぱ)人間(にんげん)をつくるんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

佐世保で小学6年生がカッターナイフで切りつけて、同級生を殺した事件があったばかりですが、今度は三条で同じく小学6年生が柳刃包丁で同級生を切りつける事件がありました。5才の幼児を9階の階段から突き落したのも小学6年生でしょう?チャンバラごっこをやっていて誤って傷つけた訳でもない、脅かすつもりでやったのでもない、どれもみなはっきりとした殺意の下でやっている。始めっから殺すつもりでやっている。

小学6年生の親というと、40才前後ではなかろうかと思いますが、これは親が相当しっかりしないといけないね。何を思おうと実際にやらなきゃいいってもんじゃないんですよ。殺意を抱いた途端に、その子の心は既に地獄の様相を呈しているんですね。更に殺害計画を練る段になれば、脳の中でシミュレーションをやる、

つまりイメージトレーニングをやる訳ですから、脳波が完全に殺人モードになっている。殺人鬼の脳に切り替わっている。凶器はカッター
ナイフにするか?柳刃包丁にするか?刺すか?切るか?ここが決れば、あとは凶器を隠し持ってチャンスをうかがうのみ。

心で思い→頭で考え→実行に移す、つまり実行する前に、心で思い→頭で考えるという
二段階の精神作業をやっているんですね。ですから「心で思う」段階でブレーキがかかれば、「頭で考える」段階には進めない。「頭で考える」段階でブレーキがかかれば、「実行する」段階には進めなくなる。このブレーキのことを「内なる裁判官」という訳ですが、内なる裁判官とは道徳心のことなんです。

やっていいこととやってはいけないことをきちんと教えるのは当然ですが、思っていいことと思ってはいけないことをしっかりと教えるのも親の責任なんです。ここをしっかりと教え込んでおけば、心で思う段階で善し悪しの判断がついて、自制(セルフコントロール)がきくようになるんです。

ただこういう時は、「嘘をつくな!奪うな!殺すな!ああするな!こうするな!」というモーゼの十戒型(否定型)よりも、「正直であれ!人に尽くせ!人をいたわれ!」と、孔子やイエスの肯定型に力点をおいて教えた方が、伸び伸びとした子に育つのではないでしょうか。人間の脳は同時に二つのことを考えられませんから。
 

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