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原文
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作成日 2004年(平成16年)7月から11月 |
子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、
於我如浮雲。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも而其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「粗末な飯に水一杯、肱枕で寝るような貧しい状況であっても、心の楽しみは尽きることがない。不義を働いて得た富や身分など、私にとっては空に漂う浮雲のようなものであって、誠にはかないものだ」と。
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〔 解説 〕 |
かと云って孔子は貧賤を奨励している訳ではありません。義に叶った富貴ならおおいに宜し!!義に叶って貧賤ならば、それも致し方なし!外物に振り回されて、精神まで腐らせるな!!ということでしょう。
この章を読むと、どういう訳か安岡正篤先生の「六中観」を思い出します。
忙中有閑 苦中有楽 死中有活
壷中有天 意中有人 腹中有書
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「おかずもみそ汁もなく、残りご飯に水をかけてかきこみ、ふとんも枕もなく、床にひじ枕で寝るような貧しい生活であっても、決して高い理想と大きな志しを失ってはいけない!人をだましてでもお金を儲けよう、人を出し抜いてでも出世しようなどと、賤しい思いを持ってはいけない!立派な人間になるか、賤しい人間になるかは、君達の普段の心掛け一つで決るのだよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
不義にして富み且つ貴き人物など金正日くらいのものだろう?などと思っていたら大間違いでありまして、今まで聖人君子と思われていたような人物が、置かれた環境や状況次第で、全く別人に変貌することもあります。
藁にもすがりたくなる時は誰にでもあることで、これは人間誰しもが持つ弱い一面ではないでしょうか。人生には陥井というか、肝試しのようなものがいくつか待ち受けておりますから、そこでブレるかブレないかは、普段からの心掛けしかないんですね。
あの孔子でさえ「不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し!」と自らに言い聞かせていたんです。負け惜しみで云っている訳ではないんです、心掛けです。
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