述而第七 165

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原文                   作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、
於我如浮雲。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく疏食(そし)(くら)(みず)()み、(ひじ)()げて(これ)(まくら)とす。(たの)しみも(また)(その)(うち)()り。不義(ふぎ)にして()()(たっと)きは、(われ)()いて浮雲(ふうん)(ごと)し。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「粗末な飯に水一杯、肱枕で寝るような貧しい状況であっても、心の楽しみは尽きることがない。不義を働いて得た富や身分など、私にとっては空に漂う浮雲のようなものであって、誠にはかないものだ」と。
 

〔 解説 〕

かと云って孔子は貧賤を奨励している訳ではありません。義に叶った富貴ならおおいに宜し!!義に叶って貧賤ならば、それも致し方なし!外物に振り回されて、精神まで腐らせるな!!ということでしょう。

この章を読むと、どういう訳か安岡正篤先生の「六中観」を思い出します。
  忙中有閑   苦中有楽   死中有活
  壷中有天   意中有人   腹中有書 
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「おかずもみそ(しる)もなく、(のこ)りご(はん)(みず)をかけてかきこみ、ふとんも(まくら)もなく、(ゆか)にひじ(まくら)()るような(まず)しい生活(せいかつ)であっても、(けっ)して(たか)理想(りそう)(おお)きな(こころざ)しを(うしな)ってはいけない!(ひと)をだましてでもお(かね)(もう)けよう、(ひと)()()いてでも出世(しゅっせ)しようなどと、(いや)しい(おも)いを()ってはいけない!立派(りっぱ)人間(にんげん)になるか、(いや)しい(にん)(げん)になるかは、君達(きみたち)普段(ふだん)(こころ)()(ひと)つで()るのだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
不義にして富み且つ貴き人物など金正日くらいのものだろう?などと思っていたら大間違いでありまして、今まで聖人君子と思われていたような人物が、置かれた環境や状況次第で、全く別人に変貌することもあります。

藁にもすがりたくなる時は誰にでもあることで、これは人間誰しもが持つ弱い一面ではないでしょうか。人生には陥井というか、肝試しのようなものがいくつか待ち受けておりますから、そこでブレるかブレないかは、普段からの心掛けしかないんですね。

あの孔子でさえ「不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し!」と自らに言い聞かせていたんです。負け惜しみで云っている訳ではないんです、心掛けです。
 
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