〔原文〕
子張日、執徳不弘、信道不篤、焉能爲有。焉能爲亡。
〔読み下し〕
子張曰わく、徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん。焉んぞ能く亡しと為さん。
〔新論語 通釈〕
子張云う、「徳を実践すると云っても狭量なものに固執したり、道を信ずると云っても浮薄なものであったなら、そんなものは有ろうが無かろうが何の意味もない」と。
〔解説〕
万事に白か黒か・正か邪か・是か非かを決め付けないと気の済まない性分の子張にとっては、「有ろうが無かろうが何の意味もない」ことかも知れませんが、世の中は善か?悪か?の両極二元論で成り立っている訳ではありません。最善の領域もあり・どちらかと云えば善の領域も在り・善でも悪でもない領域もあり・どちらかと云えば悪の領域もあり・最悪の領域もある。
つまり、人は最善〜最悪までの五つの心の領域をもっているのが普通ですが、どの領域に軸足を置くかは、100%本人の自由意思(思いの自由)と自由意志(選択の自由)に委ねられておりますから、いろんな人がいるのは当たり前。
王陽明は四句教の中で、善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動‥善も悪も無いのが心の本体、善だ悪だと弁別するのは思考の作用と、云っておりまして、すべての人の心の中にはログ1000の神の種が宿されておって、善も悪もない愛一元なのだけれども、人間は生まれてからの習慣・環境・教育によって刷り込まれた先入観念や固定観念に頼って思考・判断する習性がある。
王陽明はこれを「習心」(しゅうしん)・習い性となった心(思い)と云って、これが魂を覆って心を晦ましてしまうと主張しておりますが、これは本当にその通りで、我々凡人は中々そのことに気付かず、人から刷り込まれた価値観を本来的に自分のものだと勘違いして、判断したり決断したりする。
ただ、人間にはそういう習性があるのだということを気付くか気付かぬかで、人に対する配慮が随分と違って来ます。気付けば、ああだ!こうだ!と一概に人を決め付けなくなります。
子張は思考我の強い自信家だったようですが、堂々としている割には重く見られていなかったのでしょう、同世代の子游や曽子から「思いやりに欠けた奴」と酷評されている。(本篇後出)
つまり、子張は自らの発言と実態とに撞着(どうちゃく・矛盾)があることに気付いていない訳です、「狭量な徳や浮薄な道など意味がない!」と云っておきながら、自らその狭量と浮薄をやっているのですから。これが、頭が切れて弁が立つ自信家を待ち受ける陥穽(かんせい・落とし穴)ですね、自家撞着に気付かないって所が。
子張をキネシオロジーテストで測ってみるとログ490と出ますから、やはりログ500の仁者の壁をブチ破れなかったようです。子張は現在日本に転生して論客として活躍していますよ、今もログ490ですが。政治・経済・軍事・外交等、知の世界で勝負したらこの人の右に出る者はちょっといないのではないかと思いますが、スピリチュアルの世界に関しては疎いようで、人間存在の実相などには殆ど興味がないようです。
相変わらずだねえこの人は、2500年前とちっとも変わっていない。知だけではログ500の壁は越えられないんだね。皆さんもよく知っていますよ、この人。著書は度々推薦図書に挙げますから。
〔子供論語 意訳〕
弟子の子張が、「もっと人にやさしくしよう!と決めたのに心が狭かったり、もっと勉強しよう!と決めたのに意志が弱かったら、せっかくの決心が台無しになってしまうぞ!」と云った。
〔親御さんへ〕
解説でも述べましたが、子張はちょっと極端な性向があったようで、先進第十一280章で「師や辟(子張は偏った所がある)」と孔子に指摘されておりますが、言う事は堂々として立派なことを云います。ここが宰我と違った所ですね、二人とも才走った人でしたが、宰我は間違ったことでもしゃあしゃあゃとして云うのに対し、子張は間違ったことは云っていない。
孔子は憲問第十四347章で「言ある者は必ずしも徳有らず」と云い、371章で「君子は其の言の其の行ないに過ぐるを恥ず」と云いながらも、衛霊公第十五411章で「君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず」と云っておりますから、孫の子思と同世代の子張は気掛かりな弟子だったのではないでしょうか?(子張は孔子の48才年下)
それにしても時々不思議に思うのですが、論語全510章中、孫の子思の話が一つも出てきません。息子の鯉は孔子20才の時の子で、子思が鯉30才の時の子だとすれば、孔子とは50才の年の差ということになる。孔子が亡命先の衛から魯に帰国するのが68才の時、この時子思は18才で立派な青年ですから、当然晩年の孔子の側に居り、エピソードもいっぱいあったに違いありません。
孔子の死後、子思は4才年上の曽子の訓育を受け、後に「中庸」を残します。これ程の人物が、晩年の孔子学園で注目されない筈はない。なのに論語に一度も登場しないのはどうしてでしょうか? 何の記録もありませんから、勝手な推論に過ぎませんが、恐らく最初の論語の編纂は子思の弟子筋が試みたのではないでしょうか?
(子思も他の弟子同様一門を構え、孟子は子思の門の孫弟子に当ります)
弟子達は、編纂委員長に師の子思を立て、ある程度まとまった段階で師にチェックしてもらった。その時は子思のエピソードや「子思子曰く‥‥」なるものも何本かあったが、「これは祖父と大先輩の語録を残すものであって、わしの言行を記すものではない!
わしの所はすべて削れ!」との師の一言で、それ以降子思のことは記さないという編集スタイルが定着したのではないか?どうもそんな気がします。
「中庸」を読むと、子思が他の門人と一緒に孔子の話しを聞いていたことがはっきりと分かるし、曽参を曽子(曽先生)と論語に記した理由もわかります。曽子は子思の先生だった訳だから。まあ、どうでもいいか、こんなことは。否、どうでもよくないな、子思はログ725、孔子の教えを後世に伝えるために梵天界(如来界の下段界)から降りた大人物ですからね。だから「中庸」の前段は難解なんだな?我々凡人には。アヤナワン図がないと解読できないもの。前に「中庸」講義をやったことがあるけれども、難しかったでしょ?字義通りに解釈して、「で、どういうことなの?」と聞かれたら、誰も答えられないもの、アヤナワン図がなかったら。
子思の「中庸」のみならず、釈迦が舎利弗に説いた「般若心経」も、アリストテレスの「形而上学」も、ヨハネの「黙示録」も、我々凡人の頭で理解できる範囲を超えている。「般若心経」の冒頭も、「中庸」の前段も、「形而上学」の実体論も、「ヨハネによる福音書」第一章1節〜18節も、表現形式は違うけれども、実は同じことを云っている。
梵天界の意識レベルは、抽象概念をパッと掴み取る能力が猛烈に高いということでしょうか?理屈抜きで物事の本質をパッと掴み取ってしまうんでしょうな、こういう人達は。学問や思想だけでなく、芸術の世界でも同様のことが云えるようで、キュビズム(抽象絵画)の世界を開いたピカソも梵天界の人です。作曲家では、伝統形式に囚われない作風のマーラーがそうですね。面白いものですね。
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