〔原文〕
子張日、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀。其可已矣。
〔読み下し〕
子張曰わく、士は危きを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬を思い、喪には哀を思う。其れ可ならんのみ。
〔通釈〕
子張云う、「公務に携わる者は、国の危機の時にはいつでも一命を投げ出す覚悟ができており、役得に与る時には社会正義に照らして得るべきか否かを判断し、国の祭事には恭しく臨み、人民の葬儀に際しては哀悼の意を表する。これが公務に携わるものの条件である」と。
〔解説〕
実に堂々としていますね、子張の言は。今の公務員が聞いたら、耳が痛くなるんじゃないでしょうか? そのせいでしょうか?
当会会員に現役公務員がいないのは。当会には、教職と議員を除いて、国・地方の現役公務員は一人もおられません。来てもしばらくすると皆辞めてゆきます。
当会にはタブーがありませんから、思う所を堂々と述べたらいいのに、欠席するとも・休会するとも・退会するともウントモスントモ云わず、いつの間にかいなくなってしまう。どうなっているんでしょうかねえ?そんな役人にこそ論語を学んで欲しいのですが‥‥、出処進退のけじめをつけることなど、徳云々以前の問題でしょうが。
尚、本子張第十九篇は全篇弟子の発言が集録されておりまして、「子日わく」で始まる孔子の言葉は一本もありません。一門を成した弟子達の指導方針や考え方の違いが窺える、面白い篇です。
〔子供論語 意訳〕
弟子の子張が、「公務員は、国家の一大事の時にはいつでも命を捧げる覚悟があり、給料をもらう時にはもらうに相応しい仕事をしているかどうかをよく考え、国の行事には喜んで参加し、国民の不慮の死には遺族と哀しみをともにする。これくらいのことができなければ、公務員をやる資格はない」と云った。
〔親御さんへ〕
公務員がこれ程悪し様に云われる時代は、ちょっとなかったのではないでしょうか?今、天下り官僚の「渡り」が問題視されているけれど、「渡りの何が悪い!?」と堂々と反論する人物がどうして出て来ないのでしょうか?一人くらい勇気のある人がいてもいいと思うのだけれど。
確かに、役人が自らの定年後の収入を確保するために設立した外郭団体や公益法人に天下って、次々と渡り歩く姿は誰が見たってさもしいものだけれども、実は、一番さもしいと気付いているのは、国民ではなくて本人自身なのではないでしょうか?本当の所は。
だから「渡りのどこが悪い!?」と、堂々と反論する人が出て来ないんじゃあないでしょうかね? さもしさの上に厚顔無恥のレッテルまで貼られたらかなわないから。「しばらくおとなしくしていれば、そのうち国民は忘れる。金の為、金の為!」と、見ざる・聞かざる・云わざるの三猿を決め込んでいるのだとしたら、やっぱりさもしいね。
だが、批判している国民の側にもさもしさがありますよ。「自分の子供を将来どんな職業に就けたいか?」というアンケートをすると、「公務員」と答える親が圧倒的に多くて、「本人の自由意志」と答える親の倍以上いるそうです。これ、一方では公務員を批判しておきながら、もう一方では公務員に憧れているってことでしょう? 嫉妬半分で批判しているんでしょ? 本音は。こんなことをしていると、本当に公務員はさもしい根性の人が行く賤業になってしまいかねません。
公務員は断じて賤業なんかじゃない! 国及び国民の為に一命を投げ出す覚悟のある人が就職する立派な職業です。自分のことは後回しにして、国民のことを最優先に考える人達が行く所なんです、役所は。
中越地震や中越沖地震で、自分の家が倒壊して家族が犠牲になったにもかかわらず、不眠不休で救援に当った役所の人達の姿を見たではないですか! 過労死した職員もいたではないですか。役人の肩を持つ訳ではないけれど、平和な時には、居るか居ないか分からない位で丁度いいんじゃないですか? その分非常時に活躍してもらえれば。
皆黙っているけれど、それ位の覚悟は出来ていると思いますよ、日本の公務員は。天災は忘れた頃にやって来るというけれど、役人は忘れた頃に奮起する!という社会がいいんじゃないかなあ!? 役人が箸の上げ下げに迄口出しするような社会は、ロクなもんじゃないですよ。
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