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原文
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孔子曰、益者三楽、損者三楽。楽節禮楽、楽道人之善、楽多賢友、益矣。
楽驕楽、楽佚遊、楽宴楽、損矣。
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〔 読み下し 〕 |
孔子日わく、益者三楽、損者三楽。礼楽を節せんことを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「自己を益する楽しみに三種、自己を損なう楽しみに三種ある。礼節と音楽によって自己を磨く楽しみ・人の美徳を噂する楽しみ・賢い友が多くいる楽しみ、これらは自己を益する楽しみである。享楽に耽る楽しみ、遊楽に耽る楽しみ、宴楽に耽る楽しみ、これらは自己を損なう楽しみである。
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〔 解説 〕 |
「三楽・さんらく」を「三楽・さんごう」と読んでも結構です。享楽・遊楽・宴楽は程々にしろ!と孔子は云う、自己を損なう元だからと。だがしかし、「損なり!」とは云うものの、「止めよ!」と云わない所がいかにも孔子らしくて、これが釈迦なら即座に「止めよ!」となったでしょう。
享楽も遊楽も宴楽も、みな肉体煩悩から来るもので、心の健康も体の健康も財布の健康も損なうことになるかも知れませんが、一度耽ってみて飽きてしまうのと、一度もやらずに抑圧してしまうのとではどちらが精神衛生上宜しいかと云えば、やるだけやって飽きてしまった方が余程執着心を断ち易いし、ストレスも溜まらない。飽きてしまえば、後は付き合い程度で済ますことができる。
釈迦だってシャカ国の王子として28才迄何一つ不自由のない宮殿生活を送った。享楽・遊楽・宴楽もやるだけやって、飽き飽きしてしまったから、29才の時に出家したんでしょ?女房子供を捨てて。
六年間の難行苦行の末、「極端な快楽の中にも極端な苦行の中にも悟りの縁はない。両極端を去った程々の中にこそ悟りの縁がある!」と中道を悟った訳でしょう。清い水しか飲んだことのない人には、清い水の本当の美味しさは分からない。濁った水しか飲んだことのない人には、濁った水の本当の不味さは分からない。清濁併せ飲んでみて、初めて本当の美味い不味いが分かるものです。人間の味もそれと同じです。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「自分にプラスになる楽しみが三つ、マイナスになる楽しみが三つある。学問をして教養を高める楽しみ・人の優れた所を発見する楽しみ・才能豊かな人と友達になる楽しみ、これらの楽しみは自分にプラスになる。わがままをする楽しみ・怠けて遊ぶ楽しみ・こっそり飲み食いする楽しみ、これらの楽しみは自分にマイナスになる」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
これは子供に云って聞かせるというより、むしろ親(大人)に語っているような文章ですね。「こっそり飲み食いする楽しみは自己を損なう!」などと云われて、ドキリとした方もおられるのではないでしょうか?メタボリックで。メタボリックなどと横文字で云うからオカシクなるんで、デブとはっきり日本語で言えばいいんですよ。相撲取りでもない者が、胴回り90センチ以上もあるなんて、デブ以外の何物でもないじゃないですか!食い過ぎですよ食い過ぎ。
読書するでもなくテレビのバカ番組を見て楽しんでいる親・人のアラ探しをして楽しんでいる親・自分より優れた人を避け同類項と傷を舐めあって楽しんでいる親、これ、親はそれでいいかも知れないが、一番感化されるのは子供だから無意識で子供を壊しているようなものでしょう。ちょっと厳しい言葉で云えば、不作為の犯罪ですよ、親の普段着の姿を見て育つんだから。
最近、小学生の孫と一緒にホームページの「子供論語」を見ています、というオジイチャン・オバアチャンが結構おられまして、「子供(孫の親)の教育を間違ったんじゃないかと反省しています」というお便りを頂きます。
そういう時は、「親がダメなら、オジイチャン・オバアチャンが直接子供を叱りなさい!本当に孫の将来を思うのなら、優しい爺さん婆さんになるより、オッカナイ爺さん婆さんになりなさい!」とアドバイスすることにしています。
孫のご機嫌取りなどしている暇があったら、叱るべきところはきちんと叱り、褒めるべき所はきちんと褒めてあげなさい。今、ちゃんと叱れる親が非常に少なくなったんです、親自身きちんと叱られた経験がないから、どうやって子供を叱ったら良いかが分からない。爺さん婆さんの出番なんですよ、「コラッ!」とやる時は。
私達が子供の頃は、町内にオッカナイ爺さん婆さんがいて、縁台に座って子ども達の遊ぶ様子を見張っていた。いじめたり悪さをしたりすると、「コラッ!」とやられたものです。余計なことは云わなくていい、「コラッ!」の一言でいいんです。あれは結構効きますよ!子供の教育に失敗したと思うのなら、孫の教育に余生を捧げるべきではないのかね?
あの孔子でさえ息子・鯉の教育はうまく行かなかったようで、孫・子思の教育には心血を注いだ。(子思は「中庸」を残している)子思と同世代に、子游・子夏・子張・曽子・公西赤といった優れたライバルがいたことも幸いしたのでしょうが、青年教育に余生を捧げようと決心した孔子の晩年は、熱の入れ方がそれまでとは違っていたようです。
最初に読み下し文を読んであげて→ハイの合図で一緒に素読して→通釈文と意訳文を読んで-聞かせて→最後にもう一度一緒に素読する。これ位のことなら誰でもできるのではないでしょうか?その為の教材を毎回こうやって提供しているのですから
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