季子第十六 434

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原文

孔子曰、益者三友、損者三友。友直、友諒、友多聞、益矣。
友便辟、友善柔、友便佞、損矣。
 

〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、益者(えきしゃ)三友(さんゆう)損者(そんしゃ)三友(さんゆう)(なお)きを(とも)とし、(まこと)(とも)とし、多聞(たぶん)(とも)するは、(えき)なり。便辟(べんぺき)(とも)とし、(ぜん)(じゅう)(とも)とし、便佞(べんねい)(とも)とするは、(そん)なり。
 

〔 通釈 〕
孔子云う、「自己を益する友に三種、自己を損なう友に三種ある。直言してくれる友・誠実な友・博学多識な友は自己を益する友である。体裁ぶる友・媚び諂う友・口達者な友は自己を損なう友である」と。
 
〔 解説 〕

15年前の古い資料にはどんなことを書いたのだろうか?と調べてみたら、これを「論語に学ぶ会交友三則」にする!として、

 
一、 友の過ちには直言すべし!体裁づくりに終止すべからず。
 
二、 裏表無く誠実に友と会すべし!愛想笑いに終止すべからず。
 
三、 必ず必ず友から学ぶべし!外交辞令に終止すべからず。

とあります。さあどうですか?実践できましたか?まだ多分に遠慮し過ぎのきらいはあるけれど、皆さん概ね合格といった所ではないのかな?特に、「友の過ちには直言すべし!」というのが大切で、こういう会にでも入らなければ誰も云ってくれません。云って嫌われたくない人、云ってもらいたくない人は、皆やめて行ったように思います。

仲良しごっこの会ならば、体裁ぶって・愛想笑いして・外交辞令に終止していれば良いかも知れないが、当会は互いに研鑽し合う会ですから、生(き)のままで付き合わなかったら15年ももちません。

口に甘く耳に優しいことばかりでは、3年もすれば飽きますからね。時には、口に苦く耳に痛いことをズバリと言ってもらうことも必要なんです。我々凡人は、人に云われ
ないと気付かないことがいっぱいありますから。引き続き本章を当会の「交友三則」に掲げて行きたいと思います。
 

〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「つきあってプラスになる友達(ともだち)に三タイプ、マイナスになる友達(ともだち)に三タイプある。正直(しょうじき)(とも)真心(まごころ)のある(とも)(もの)()りな(とも)はプラスになる。上辺(うわべ)ばかり()にする(とも)・ゴマスリの(とも)・オベンチャラの(とも)はマイナスになる」と。
 

〔 親御さんへ 〕

431章の解説でも述べた通り、本章から438章迄の五本は、孔子が手元のメモを見ながら語っているようで、とても無機質な感じがします。「今更こんなことを云わねばならんのか!?」と思いながら語っているようで、いつもの孔子の熱が伝わって来ません。何度読んでもそうです。

「益者三友、損者三友」・「益者三楽・損者三楽」・「君子三愆」・「君子三戒」・「君子三畏」‥、どれも色紙に揮毫すると喜ばれそうな言葉ですが、どうも熱が伝わって来ない。「どうだ?お前達分かるか!?」と、編者に試されているような気がするんですね。

私の考え過ぎかも知れませんが、「斉論が紛れ込んだものだろう」で片付けてしまえば編者の勝ち、「マンツーマンの対機で語ったものか?一対多の講義形式で語ったものか?」編者の仕掛けを見抜いたら読者の勝ち。

孔子の弟子筋には、こんな遊び心を持った人もいたのではないでしょうか?つまり、編集の段階で、今自分達がまとめているものが千年も二千年も読み継がれて行くであろうことを知っていた人がいたということですね。
 

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