衛靈公第十五 418

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〔原文〕
子曰、過而不改、是謂過矣

〔読み下し〕
()(のたま)わく、(あやま)ちて(あらた)めざる、(これ)(あやま)ちと()う。

〔通釈〕
孔子云う、「人は誰でも過ちを犯すものだ。だが、過ちを犯しても本人が過ちと気付かなければ、際限なく同じ過ちを繰り返して改めようがない。これが本当の過ちというものだ」と。

〔解説〕
私達は知って犯す過ちよりも、知らずに犯す過ちの方が断然に多い生きものです。刑法では知らずに犯す過ちを「過失」と云って、知って犯す「故意」よりも罪は軽いとされておりますが、人間真理から見た場合、それが逆だ!と孔子は云う。つまり、本人がそれを過ちと気付かなければ「反省」してみようがなく、反省できなければ「改過」することのないまま、死ぬ迄同じ過ちを繰り返す。死ぬ迄に反省―改過することができなければ、死んでからあの世に持ち帰ることとなる。


あの世は肉体を持たず、魂が丸裸の状態で居る訳ですが、肉体の死後持ち越した過ちは、丁度魂が化膿したようなもので、あちこちに膿を持って腫れている。この膿を出し切らないと天国(極楽)に入れてもらえませんから、過ちに気付いて反省できる迄(膿を出し切る迄)、二百年でも三百年でも五百年でも、暗〜くて、寒〜くて、臭〜い刑務所のような所に隔離される訳です。この暗〜くて、寒〜くて、臭〜いあの世の刑務所のことを一般に地獄と呼んでいるんですね。

では一体誰が裁くのか?そんな所に入れるのか?と云うと、閻魔様のようなおっかない神様がいる訳ではなくて、神の種を宿したあなた自身の本心が裁く、つまり、自分で自分を裁いてあの世の行き先を決める訳です。だから、誰を怨むこともできませんし、自分で決めるんですから。

「自分自身の本心」という意味が分かりにくければ、自分の魂の親分(ボス)と云うか・・・、ああそうだ「親魂(おやだま)」と考えてもらっていいでしょう。皆さんは自分の魂を、今世肉体に宿った一体だけと思っているかも知れませんが、本当は「六魂(ろっこん)一体」、そうですねえ・・・、掌(てのひら)を考えてもらえばいいかな?掌が親魂で五本の指が分身、即ち「本体一、分身五」の六魂で成り立っている訳です、人間の魂は。

この六魂が順繰りにこの世に出て来て、それぞれが様々な経験を積みながら魂進化を遂げて行く。このそれぞれ様々な経験が、本体である親魂に吸い上げられて、六魂全体で共有する。なんでこうなっているのかは分かりませんが、たった一人の経験よりも、六人それぞれの違った経験を共有した方が全体としての認識力がより高まるように、一魂一体よりも六魂一体の方が魂進化には良い、と、神様は考えられたのではないでしょうか?

しかし、六魂のうちの一魂が膿を持ったまま天国に帰ると、経験共有の法則によって残りの五魂まで感染してしまう、だから親魂(おやだま)(本体)が「膿を出し切ってから帰って来い!」と、気付きと反省の機会を与える、あの世の刑務所で。

過ちに気付かなければ → 反省することができない。反省することができなければ → 改過することができず、際限なく同じ過ちを繰り返す → 同じ過ちを繰り返しているうちに、魂が化膿する。 → 魂が化膿するということは、その人生は失敗であったことを意味する。

せっかく頂いた魂進化のチャンス(人生)をダメにしてしまう程罪深いことはありません。ですから釈迦も孔子と同じことを云った、「知らずに犯したる罪は、知って犯したる罪に百倍す!無明(むみょう)(過ちを過ちと気付かないこと)ほど、人として罪深いことはないのだ!!」と。ダンテはこれを「地獄への道はいつも善意で舗装されている」と云いました。

「人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種を宿した生き通し(永遠不滅)の存在であって、生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)を繰り返しながら、無限の進化を遂げて行く」ということが未だに信じられなくて、「イ〜ヤ!人間は肉体がすべて!宇宙は物質がすべて!死んでしまえばすべて終わり!」と思っていること程、魂を化膿させてしまう無明(無知)の極みはありません。

「科学的に証明されていないではないか!?」などと一丁前の口をきく前に、リサ・ランドールを読んでみなさい。最先端の理論物理学では、宇宙の構造は物質世界が4%以下、非物質(ダークマター・ダークエネルギー)の世界が96%以上であることが分かっている。このダークマター・ダークエネルギーのことを精神世界では「霊」と云ったり「プラーナ」と云ったり「エーテル」と云ったりする訳です。目には見えないけれども、ちゃんと存在しているのです、非物質として。

この霊が神の意思により統一体として凝集・個性化したのが「魂」と思って良い。物質・半物質・非物質を問わず、万生万物の究極の原料が「魂」と考えて良い。旧約聖書創世記第一章「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なくむなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるのはこのことを云っているのです。

尚、本章は「自分の過ちに気付きながら、それを改めようとしないのが本当の過ちだ」と解するのが一般的ですが、それでもいいけれど、その程度のことなら誰でも知っている所で、敢て孔子が云うほどのことでもないでしょう。

過ちに気付けば、既にそこに反省の芽がある訳で、何らかのきっかけを与えられてその気になりさえすれば、いつでも反省−改過することができますが、過ちに気付かなければ反省の芽など存在せずその気になる理由などどこにもありません。ず〜っとそのまんまでいて何とも思わないこと自体、つまり、気付かないこと自体が本当の過ちなんです。

弟子達に気付きのきっかけを与える名人、孔子がそこを見逃す筈はありません。「気付き」とは「反省の芽」の別名、魂進化の原動力です。ああ今日はいい勉強をしましたね。本章一章で、ログが100ポイントジャンプアップしたのではないでしょうか。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(ひと)(だれ)でも失敗(しっぱい)することがある。君達(きみたち)にもあるだろう?失敗(しっぱい)したときはがっかりするけれど、失敗(しっぱい)には(かなら)原因(げんいん)があるから、クヨクヨする(まえ)になぜ失敗(しっぱい)したのだろうかをよく(かんが)えてみなさい。(なま)けたからか?(からだ)がだるかったからか?やる()()きなかったからか?などなど。その原因(げんいん)()づけば、よーし!(つぎ)はここに注意(ちゅうい)してがんばろう!!という勇気(ゆうき)()いて()る。勇気(ゆうき)()けばやる()()きて()る。やる()()きれば元気(げんき)()来る()元気(げんき)()れば根気(こんき)がついて()る。まずは原因(げんいん)()づくこと!これがすべてのはじまりだ。原因(げんいん)()ったらかしにしておいて、いくら努力(どりょく)(かさ)ねても、結果(けっか)はいつも(おな)失敗(しっぱい)のくり(かえ)しで、せっかくの努力(どりょく)がムダになる。努力(どりょく)ムダ(むだ)になるほどおおきな失敗(しっぱい)はないだろう?」と。

〔親御さんへ〕
原因には主因(根本的原因)と副因(副次的原因)があって、主因に気付かず副因だけに対処していると、一時は改善されたように見えて、却って状況を悪化させてしまう場合があります。そうですねえ・・・、たけしの“本当は怖い家庭の医学”で語られる、「放っておくと、そのうち大変なことになりますよ!」という最終警告なんかはその一例ですね。放っておくと大変なことになるのは何も病気だけではありません、人生にも事業にも同じことが云えます。

前に何度か紹介した19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アミエルはこれについて、「心(意思)が変われば態度(物事の捉え方)が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命(人生)が変わる」と開運の極意を述べている。

順序を逆にして云うと、運命を変えたければ→人格を磨きなさい→人格を磨きたければ→習慣を改めなさい→習慣を改めたければ→態度(物事の捉え方)を変えなさい、つまり、先入観念や固定観念を剥ぎ取りなさい→態度を変えたければ→究極的には心即ち意思(思い)を変えることだ!ということです。

これが運命転換の極意・鉄則なんですね。心が変わらなければ、態度を変えようが習慣を変えようが、結局の所運命など変わりようがないんです。心が原因で運命は結果、つまり、自分の思いが現実を造り出し、環境を引き寄せるということです。だからすべての人に自由意志が与えられている訳です、自分で自分の運命を開拓して行けるように。

この世は原因結果の法則で成り立っていること位、小学校の高学年になれば分かる筈ですが、最近、原因を放ったらかしておいて、結果だけ良くしようともがいている大人が多いのに驚かされます。「ついてる、ついてる、ありがとう!」と唱えればツキが回って来る!運が向いて来る!と説いて全国を廻っている無責任男がおりまして、信奉者も結構いるようですが、困ったもんですね、真理詐欺だよあれは。主因(心)を放ったらかしておいて、副因(態度や習慣)をいじっているだけだもの。

「ついてる!ついてる!」と自己暗示をかけて、たまにツキが回って来ることもあるけれど、それはほんの一時で長続きしないものなんです。こういのは禅で云う「一転語」でありまして、今将に転落しかかっている人に対して、くどくど説教している暇はありませんから、一瞬でクラリと意識を切り替えさせる一語を投げかける、つまり、心境を一転させる語(ことば)という意味ですから一転語という訳ですね。二転も三転もさせることはできませんから、二転語という言葉も三転語という言葉もありません。一転はさせてやれるけど、二転三転は自助努力と自己責任でやれ!七転び八起きで行け!ということなんです。

私の知り合いに二年程前から「ついてる教」の信者になった人がいて、仕事そっちのけで「ついてる!ついてる!」と教祖の追っ掛けみたいなことをやっていたので、「あんたそんなことしてると会社潰れるよ。人減らし・在庫減らし・社屋を売って借金減らし、自宅を事務所に改造してやり直せ!客はいるんだから食いっぱぐれることはないよ!!」と云っても「イ〜ヤ!これをやっていれば自然にツキが回って来る!」と云って耳を貸さない。とう]とう金繰りに詰って盆前に倒産しましたよ、そこは。

だからと云って、私は一転語を全面否定しているのではありません。一時の気分転換には有効なんです、滅入った時などにはね。一時の気分転換には有効だけれど、人生の運命転換、開運の極意ではないよ!と云っているんです。運命転換の極意はアミエルの言葉にあるんです。あなたの身の周りで「ついてる教」に狂っている人がいたら、教えて上げてください、「そんなことしてると、そのうち大変なことになりますよ!」と。
 

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