〔原文〕
子曰、人能弘道。非道弘人。
〔読み下し〕
子日わく、人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。
〔通釈〕
孔子云う、「真理の道は、人から人へと伝え弘められて行くものであって、真理が勝手に独り歩きして人々に弘まって行くものではないのだ」と。
〔解説〕
どんなに素晴らしい教えが説かれたとしても、ありがたや!もったいなや!と自己満足するだけで、これを伝え弘める者・伝道師がいなかったら、その教えは国境を越え時代を越えて弘まっては行きません。
仏教も儒教もキリスト教も、その時代時代に覚醒した伝道師がいたからこそ、2000年も2500年も教祖の教えが述べ伝えられて来たんですね。古文書、つまり文字情報としてだけ残ったのであれば、とっくに博物館行きになって考古学者の研究対象になっているでしょう。
仏教には僧侶・キリスト教には神父か牧師といったプロの伝道師がおりますが、儒教にはプロの伝道師はおりません。これも教祖の個性の違いでしょうか?釈迦は弟子に出家を勧めて俗世を捨てさせたし、イエスは漁師をやめさせて「魚を漁(すなど)るよりも人を漁れ!」と弟子に宣教を勧めたのに対し、孔子は、政治家になって仁政を施せ!社会を丸ごと救え!と仕官の道を勧めた。
孔子の弟子はみな政治家兼学者兼伝道師として、俗世に身を置いたまま全土を渡り歩いた、つまり、自分の食い扶持は自分で稼ぎながら伝道活動をやった訳です。これも面白いねえ、僧侶はお布施、牧師は献金によって生活の糧を得るのが常識ですが、儒教を伝える者は自分で稼ぐのが当たり前って云うのも。
世界中の人が「もう働くのは嫌だ!仏弟子になります!!」と云って全員が出家してしまったらどうなるんだろう?布施する人が誰もいなくなったら、どうなるんだろう?自給自足の原始時代に逆戻りするのかな?仏教発祥の地インドで、草々に仏教が廃れてしまった理由も、案外こんな所にあるのかも知れません。
こう考えると、檀家制度を発明した人は偉いね!国王や権力者の庇護を受けなくたって、自前でやって行けますからね、寺は。檀家制度が始まったのは鎌倉時代だそうですが、元々儒教の仕来たりであった位牌や年忌法要が日本仏教に取り入れられたのも鎌倉時代です。鎌倉時代には、頭のいい坊主がいたんだね、きっと。
坊さんの悪口を云うつもりはないけれど、読経、もっと朗々とやってもらえませんかねえ?蚊の鳴くような声明(しょうみょう)じゃ情けないよ!プロなんだから、もっとしっかり発生練習しなさいよ!最近葬式に行く機会が増えて、その度にガッカリさせられます。説法に自信がないのなら、声明だけでもプロらしくやって下さい。私の先輩で横浜に発声法の大家がいるから、いつでも紹介しますよ、お坊さん!たった5分でうまくなります。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「君達は、いい教えを聞いたら、ひとり占めしないで人にも教えてあげなさい。ごちそうは一人でたべるより大勢の人と食べた方がうまいだろう?それと同じなんだよ」と。
〔親御さんへ〕
「イ〜ヤ!御馳走はこっそりと一人で食べた方が断然うまい!!」と云ったのは小千田だったか?勿論冗談半分(本音も半分か?)で云ったのでしょうが、独り占めってのは良くないね、何事も。必ず人に怨まれる。
真理を述べ伝えることを仏教では「広宣(こうせん)」、キリスト教では「伝道(ミッション)」と云いますが、儒教にはこれに相当する適当な言葉がありません。皆さんは、孟子・荀子・董仲舒(とうちゅうじょ)・韓愈(かんゆ)・蘇軾(そしょく)・朱熹(しゅき)・王陽明・洪自誠等々を学者と思っているかも知れませんが、本業は皆政治の実務家だったんです。政治家は真理の勉強をよくした、というより、真理の勉強をよくした人が政治家になったんですね。
隋・唐以降は、科挙の進士に及第したエリートが政治の実務を取り仕切るようになります。科挙が始まると、「修己治人(しゅうこちじん)」を眼目とする儒教は、試験に合格する為の受験科目になる。つまり、活学問から死学問に堕してしまう訳ですが、それでも韓愈や蘇軾(そしょく)・朱子・王陽明・洪自誠等は、儒教の本質を伝えるべく頑張った訳です。勿論この人達も皆進士です。
日本が中国から輸入しなかったものに、「宦官」・「纏足」・「科挙」の三つがあるとよく云われますが、明治20年に始まる「高等文官試験(高文)」は、科挙の亜流みたいなものでしょう。高文は昭和23年に廃止されたけれども、今度は熾烈(しれつ)な受験戦争が始まった。戦前の高文試験は、第T種国家公務員試験に名前が変わり、これにパスした人をキャリアと云う。キャリアとは科挙の進士ですね。
ペーパーテストと簡単な面接だけで国家エリートが決まる今のシステムより、科挙の仕組の方がスーパーエリート選抜には優れているかも知れません。科挙を受験するには、「県試」→「府試」→「院試」の三つの予備試験をパスしなければなりません。パスした人を「秀才」と云って、漸(ようや)く科挙の受験資格が与えられる、つまり、ここからが愈々(いよいよ)本番です。
科挙にも三次試験迄あって、最初が文章表現能力や詩文能力を試す「郷試(きょうし)」→これにパスすると、国政に於ける政策立案能力を試す「会(かいし)」→これにパスすると、最終試験では国家ビジョンや戦略策定能力が試される「殿試(でんし)」に臨み、これに合格した人が「進士(キャリア)」となる。進士になるには単に知識がある、記憶力が良い、文章がうまいというだけではダメでありまして、かなりの識見が要求された訳ですね。
今の日本は、丁度科挙の予備試験だけで国家エリートを決めているようなものです、本試験をやらずに。真のエリートとは、国家及び国民の安・富・尊・栄を実現し、これを増幅拡大せしむるに足る人物のことを云うのですから、選抜をもっと厳しく行うと同時に、充分な身分保障をしてやるべきです。年俸1億円位やったらいいじゃないですか!エリートには。国家及び国民の為に命を捧げてもらうんだから。こういう所は国民はケチってはいけない!
ロクな給料をやらんから、○○(前防衛省事務次官)とその妻みたいに、おねだり官僚ファミリーに成り下がって逮捕されてしまうんだよ。真の国家エリートには、1億円でも2億円でもやれ!!そうすれば、日本のみならず世界中から優秀な人材が押し寄せて来るよ。
平公務員の給料は高過ぎる、しかしエリートの給料は安過ぎる。国のエリートにケチな金の心配はさせるな!!事務次官は、昔で云えば官僚の中の英雄だ。事務次官になったら、別荘の二つや三つ買えるだけの金をやれ!妾の二人や三人囲えるだけの給料を払え!英雄は色を好むのだから。(これ関係ないか?)
こんなことを云うと、又バカなマスコミが、「私達は役人が妾を囲う為に税金を払っているのではありません!」などと寝呆けたことを云うかな?何に使ったっていいじゃないの、自分で稼いだ金なんだから。エリート官僚には国益を全うしてもらえばそれでいいのであって、品行方正かどうかなど問題じゃない。安っぽい倫理観でケチな了見を起こしちゃいけないね。
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