〔原文〕
子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思。無益、不如學也。
〔読み下し〕
子日わく、吾嘗て終日食わず、終夜寝ねず、以て思う。益無し。学ぶに如かざるなり。
〔通釈〕
孔子云う、「私は若い頃、一日中何も食べず、一晩中一睡もせず、思索に耽ったことがあるが、大して得る所がなかった。やはり昔の聖賢の残した古典に学ぶには及ばないな」と。
〔解説〕
孔子は為政第二31章で「学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し」と述べておりますが、学びて思い、思いて学ぶ学習スタイルが確立したのは何才位の時でしょうか?「三十にして立つ」ですから、当然これ以前ということになりますが、20才位でしょうかね?学習スタイルが確立したのは。とすると、一日中何も食べず一晩中一睡もせず思索に耽ってみたのは、一五才で学問の道を志して間もない17〜8才頃のことかも知れません。
孔子の「学びて思い、思いて学ぶ」学習スタイルは生涯変わらなかったようで、述而第七167章で「憤を発しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」と自ら語っている。これは孔子を見習わないといけませんなあ!?
聞けば聞きっ放し、読めば読みっ放し、云えば云いっ放しで、三歩歩けばみんな忘れる!なんてのは、ちょっと・・・。メモをとったらいいよ!と云ったらメモをとる迄は良かったのだが、今度はメモりっ放しで、何を書いたか訳が分からんってのも、ちょっと・・・。そのくせ、金勘定だけはしっかりしているんだな、これが又。不思議なもんだね、こればっかりは。
趣味は読書って云うから、どんなものを読んでいるのかと思ったら、何通もある預金通帳の残高を日に何度も確認してるだけじゃないの!これって読書とは云わんだろう!?アレ〜?皆さん誰かと勘違いしてるんじゃないの?千葉のあの人と。違う違う!R園じゃない!!今云った人は三年前に亡くなりました。皆さん知らない人です。
R園は立派な人です。東京支部開設に当たって、慣れている人がいた方が私も心強いので、東京支部移籍をお願いしたら、「まかせなさい!東京はどこも庭(丹羽)みたいなもんだから、大船に乗った気でいなさい!!」って励ましてくれたんだから。頼りにしているんですよ、私は!何をメモしたか位ちゃんと分かっていますよ、R園は。(ただ、どこに書いたかが分からなくなるだけで)
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「私は若いころ、分からないことがあると一日中何も食べず、一晩中一睡もせず考え続けたことがある。しかし答えが見つからなかった。翌日図書館で調べてみたら、ちゃんと本の中に解き方のヒントがあって、ものの5分で問題が解けてしまった。この時ほど本ってすごいなあ!と思ったことはない。君達も一日30分でいいから本を読む時間を持って、毎日読書する習慣を身につけてごらん。必ず為になって役に立つ!」と。
〔親御さんへ〕
近頃は「量より質」ということがよく云われますが、読書に関しては当てはまりません。量をこなさないと質は高まらない、つまり、読書は「量が質をつくる」典型的なものと云っていいでしょう。
読書に限らず、芸術でも音楽でも芸能でもスポーツでも、練習量がものをいう世界は至る所にあります。否、殆どがこうだと云って良いのではないでしょうか?経験量が質をつくって行く!と。前にも述べましたが、80数年という限られた人生の中で、私達が直接経験(体験)できる範囲はたかが知れている、絶対量が足りません。これを何で補うか?となると、歴史や古典を学ぶことによって疑似体験するしかない。つまり、歴史や古典を読むことによって疑似体験をし、疑似体験することによって認識力(物事を見定め、その意味を深く理解する力)が培われて来る訳です。
自分が直接見たり、聞いたり、触れたりした経験のみで培われた認識力などたかが知れている。だから「学ぶに如かざるなり」、歴史や古典を読め!疑似体験してみろ!と孔子は云った訳です。ビスマルクもこのことをよく知っていたようで、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と云っている。
読書の習慣は若いうちに身につけた方が良い、出来れば子供のうちに読書の習慣を身につけさせた方がいい。年をとってからでは面倒臭くなって、読まず嫌いになってしまう。私が「本を読まなくちゃいかんな!?」と気付いたのは三十五過ぎでしたから、それから習慣づけるのは骨が折れました。頭が堅くなっていた、というより、脳ミソがアルコール漬けになっていましたからね。「これだ!!」と思って論語にはまったのは、一千冊位読んだ後でしたよ。四十前後だったかな?あれは。あと仏典では「法華経」、聖書では「四福音書」かな?はまったのは。
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