〔原文〕
子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人也。
〔読み下し〕
子貢問うて日わく、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
〔通釈〕
子貢が、「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えて下さい」と問うた。孔子は、「それは恕、つまり相手の身になって思い・語り・行動することだ!」と答えたが、子貢には難しいと思ったのか、言葉を継いで「自分が嫌なことは人に仕向けるな!」と云った。
〔解説〕
元は、原文「己所不欲(己の欲せざる所)・・・」の前に「日(日わく)」があって、孔子が言葉を継ぐ形になっていたのではないかと思います。論語510章中、孔子が「恕」なる言葉を語っているのはここ一ヶ所しかありません。(里仁第四81章に「忠恕」という言葉が出て来ますが、これは曽子の言葉です)つまり、「仁」は繰り返し弟子達に語っていたけれども、「恕」は殆ど語らなかったようです。
思うに、孔子は仁の究極の姿を「恕」と考えていたのではないでしょうか?だから子貢ほどの人でも、恕の概念(ロゴス)をどう捉えていいかよく分からなかった。孔子が「其れ恕か」と云った時、打てば響く孔門随一の切れ者子貢でさえピーンと来なかった。そこで、これなら分かるだろう?と云うことで、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ!」と言葉を継いだ。恕本来の意味ではないけれども、子貢が理解できる恕に近い言葉を方便に用いて。
ですから、恕イコール「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」ではないんですね。「恕とは、喩えてみればこういうことだ」という比喩なんです。ここを勘違いしている人が随分多くて、「孔子の教えは恕の一語に尽きますね!」などと断言する人に時々出会いますが、私にはとてもそんな勇気がない。
論語にたった一回しか出て来ない「孔子の恕」とは一体何なのか?正直云って私ごときにはまだよく分からないのです。通釈では、孔子の恕を一応「相手の身になって、思い・語り・行動することだ!」と訳しましたが、自信がありません。
孔子が弟子達の能力や性分に合わせて、手を変え品を変えて指導することができたのは、弟子一人一人の気持ちが手に取るように分かったからですね。これを「対機説法」と云いますが、対機説法が自由自在にできたのは、孔子の他には釈迦とイエスしかおりません。
これは我々凡人にできることではありません、相手の気持ちが手に取るように分かるなどということは。相手の気持ちが分からない時は、次善の策としてどうするか? 自分の身に置き換えて「自分だったらどう思うか?どう語るか?どうするか?」と考える。これなら我々凡人にも何とかできそうです、自分に置き換えることなら。でもこれは最善ではなく次善です。
これが「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」となる。人の欲していることは何か?嫌がることは何か?が分からないのですから、自分に置き換えてみる他はない。但し、的中することもあれば的外れのこともある。自分には何でもないことが、相手にはとても嫌だったり、自分では大嫌いなことが、相手には大好きなことだったりする。善かれと思ってしたことが裏目に出て、「有難迷惑、余計なお世話」ってことはよくある。
恕とは一般的には「自分を思うのと同じように相手を思いやる・思いやり」と解されておりますが、孔子の恕はちょっと違うようで、「人の気持ちが分かるようになること、相手の身になって思い・語り・行動することができるようになること」これが恕、つまり本当の思いやり。自分の身に置き換えて云々するのはまだ半人前!ということかも知れません。自分の身に置き換えてみることすらできないのは、半人前以下ってことですね。
恕は如(ごとし)+心(こころ)の会意文字ですが、仏教で「如心(にょしん)」といえば、人の心が手に取るように分かることを云います。釈迦も孔子も同じことを考えていたのかも知れません。恕の感性は、男性よりも女性の方が何倍も発達しているのではないでしょうか?
赤ちゃんの泣き声を聞いて、今子供が何を欲しているのか?何を嫌がっているのか?直感的に覚りますからね、母親は。本当は、男が何を欲し何を嫌がるかもちゃ〜んと覚っているのかもしれないよ?女性は!何〜にも知らん振りしているけれど。
恕を更に分解してみれば、女+口+心で、男+口+心ではない。気をつけろよ雅高!女の口は怖いんだぞ!「嫌よ嫌よも好いのうち」って、あれ男心を見透かして「嫌よ嫌よ」と焦(じ)らしているだけなんだから。実行が先理屈は後!行為が先後悔は後!(これ関係ないか?)
〔子供論語 意訳〕
弟子の子貢が、「一生守り通すべき言葉はありますか?」と質問した。孔子様は、「常に相手の身になって思いやること!これを難しい言葉で恕という」と答えたが、子貢がよく分からないようすだったので、「そうだなあ?自分がいやなことは人にしてはならない!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説でも述べましたが、恕という概念が今一つ掴み辛くて、何か手がかりになるようなものはないだろうか?と探してみましたら、仏教で云う「四摂事(ししょうじ)」がこれに近いのではなかろうか?と思い当たりました。四摂事とは、菩薩が衆生を救済する為の四つの実践徳目(菩薩行)のことで、
布施(ふせ) ・・・相手の迷いを解く為に真理を教える。
愛語(あいご)・・・相手が理解できるよう温和に語る。
利他(りた) ・・・相手を利する行いをする。
同事(どうじ)・・・相手と同じ立場に立って手助けする。
四つとも相手が先、自分が後なんですね。つまり、布施・愛語・利他・同事の四つを合体したものが「孔子の恕」なのではないでしょうか?これは難しいね!我々凡人はどうしても自分が先、人は後になってしまいますからね。恕とは、相手が主、自分は従、人が先、自分は後の覚悟がないとできぬってことですかね。キリスト教で云えば「献身(一身を捧げ尽くすこと)」ですね、恕とは。釈迦も孔子もイエスも、同じことを云っていたんだね。
ここがどうもログ500・菩薩意識の壁になっているようで、自分が主・相手は従、自分が先・人は後と思っているうちは、この壁を越えられないってことかな?ですから、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(自分が嫌なことは人に仕向けるな!)」ではまだ半人前、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは、先ず人にやってあげなさい!!)」が加わってやっと一人前ということですね。イエスも孔子と同じことを云っている、「すべて人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ!」と。釈迦も孔子もイエスも、この地上を菩薩・君子・天使で満たそうと、一身を捧げ尽くした人だったんだね、すごいね。ここまでなれるものなんですね、人間は。
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