〔原文〕
子曰、君子不以言擧人、不以人癈言。
〔読み下し〕
子日わく、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。
〔通釈〕
孔子云う、「君子たる者は、言うことが良いというだけで、その人の人柄まで全面肯定したりはしない。又、人柄が良くないからといって、その人の発言まで全面否定したりはしない」と。
〔解説〕
確かに孔子の云う通りだけれども、難しいねえ。ここがどうも我々凡人の苦手な所で、好きな人の発言なら「鰯の頭も信心から!」と全面肯定してしまうか?嫌いな人の発言となると「坊主憎けりゃ袈裟迄憎い!」と全面否定してしまうか?のどちらかに偏ってしまう。
「君子たる者かくあるべし!」と語る406章〜本章迄の六本は耳の痛いことばかりで、これじゃあ君子になどなれる訳がない!と諦めてしまいそうですが、次章で子貢に「他に生涯守り通すべきことは何か?」と単刀直入に問わせ、「それは相手の身になって考える思いやりだ!自分が嫌なことは人に仕向けるな!!」これならできるだろう?と孔子が答えて、読者を安堵・激励する構図になっている。実によく出来ています。
ここ数章の編集を担当した人物は、相当の優れ者ですよ、きっと。子貢が優れ者でしたから、その弟子筋にも優れ者がいたのでしょう。弟子は師に似るものですからね。もっとも、論語をこんな風に読んで楽しんでいる物好きは、当会位のものかも知れません。孔子や弟子達の息づかいは勿論のこと、編者達の息づかいまで読み取ってしまおうなどと考えるのは、ちょっと欲張り過ぎかな?
ただ、編集してくれる人達がいなかったら「論語」なる書物は存在しなかったし、今こうして私達が読むこともできなかった訳だから、編者に敬意を表する意味で、編集の労苦を忖度してみるのもいいのではないか?そんな気がします。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「君達が人を信じるのは良いことだ。だが、云うことが立派だからというだけで、人柄までヨシ!のレッテルを貼ってはならない。又、やることがだらしないからといって、発言までダメ!のレッテルを貼ってはならない」と。
〔親御さんへ〕
言葉(外見)と人柄(内面)を組み合わせてみると、次の四通りがあります。
言葉(外見) 人柄(内面)
@言葉 ○(ヨシ) 人柄 ○(ヨシ)
A言葉 ○(ヨシ) 人柄 ×(ダメ)
B言葉 ×(ダメ) 人柄 ○(ヨシ)
C言葉 ×(ダメ) 人柄 ×(ダメ)
ここではタイプAのことを裏表から論じている訳ですが、孔子は言葉を大切にする人でしたから、言葉が×(ダメ)の人は初めから眼中になかったのか?B・Cのタイプは相手にしなかったのか?と云うと、庶人に対してはそんなことはないが、君子(リーダー)としては、仮令朴訥ではあっても自分の意思を明確に言葉で伝えられない者は×(ダメ)と考えていたようです。
ここが孔子と老子の考え方の違いでしょうか?老子は「知る者は云わず、云う者は知らず」と二元論で断ずるけれども、孔子は「真に知って云う者もおり、何も知らないから云わぬ者もいる」と、四元論で捉える柔軟さがある。一般には、孔子は堅物、老子は柔軟と考えられておりますが、「論語」を何度もやり「老子」を二度もやった皆さんならば、実は孔子の方が柔軟思考だと分かるのではないでしょうか?両者の思考法を比較してみると、
〈老子的思考〉
知 言
@真に知る者は ○ → 云わず
×
A知らず × ← 云う者は
○ の二元思考
〈孔子的思考〉
知 言
@真に知って ○ → 云う者もある ○
A真に知って ○ → 云わぬ者もある
×
B知らず × → 云う者もある ○
C知らず × → 云わぬ者もある
× の四元思考
こうしてみると、明らかに孔子的思考に柔軟性のあることが分かるでしょう。これはキネシオロジーテストで測定してみても、はっきりと出ます。孔子も老子も大如来の意識を持った方ですが、孔子はログ1000(正真正銘の救世主)と出るのに対し、老子はログ990(救世主一歩手前)と出ます。面白いものですねえ、老荘ファンや研究家は皆誤解しているよ、これ!
いくつになろうが、今迄自分が教わって来たこと・信じて来たことは、もしかしたら間違っているのではなかろうか?と自らに問う謙虚な姿勢は、真理を学びこれを行じてみようと思う者にとって、失ってはならんことでしょう。これ以外にない!と断じて頑なになった時から、オカシナ方向に曲がって行くのではないでしょうか?肉体を着ている時は、殆ど明き盲みたいなものですからね。因みに、頑固思考の人ほど早くボケ、柔軟思考の人ほどボケないと云います。
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