衛靈公第十五 397

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〔原文〕
子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。


〔読み下し〕
()(のたま)わく、志士(しし)仁人(じんじん)は、(せい)(もと)めて(もっ)(じん)(がい)することなく、()(ころ)して(もっ)(じん)()こと()り。

〔通釈〕
孔子云う、「志士(志の高い人)や仁人(仁徳を体現した人)は、命が惜しいからと云って仁の道を曲げるようなことはしない。むしろ、我が身を犠牲にしてでも仁の道を成し遂げようとする」と。

〔解説〕
ここで云う仁の道とは、愛の道(救世愛)と考えて良いでしょう。私が初めて論語のこの章を読んだ時、これは500年後のイエスキリストの生涯を孔子が予言しているのではないか?と思ったものです。イエスは、身を殺して以て仁を成した人ですから。


イエスキリストのみならず、実はこれが武士道の原点になっていることを知る人は案外少ない。武士の本懐は「身を殺して以て仁を成す」にある訳ですから。だから幕末・維新の英雄を「志士」と云うでしょう!志士とは、国家・社会の為に自分の身を犠牲にして尽くそうとする志の高い人を云います。坂本龍馬なんかはその代表的な人物ですね。

論語―イエスキリストー武士道がつながっていたなんて、知らなかったでしょう!?殊にイエスキリストの生き様が武士道の原点であったなんて!新渡戸稲造の「武士道」が、欧米キリスト教国でなぜあれだけ受けたのか?その理由がこれで分かったでしょう。欧米人は武士道の中にイエスの姿を見たんですよ。欧米人は「サムライ」が大好きなんです。

司馬遼太郎の「竜馬が行く」の影響でしょうか?現在全国に平成の坂本龍馬を名乗る人が沢山います。坂本龍馬は「不惜身命」の人です。「身を殺して以て仁を成す」覚悟のない者が、平成の坂本龍馬などと名乗っちゃいけません!国家・社会の為に命を捨てる覚悟のない者が!!

現代はグローバルになったから、世界人類同胞の為に死ねる覚悟のある人を、平成の坂本龍馬と云って良いかも知れないね。因みに、坂本龍馬はログ540を打つ正真正銘の菩薩、闊達(かつだつ)・豪胆な仁者でした。だからあれだけのことができたんですね。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(こころざし)(たか)愛情(あいじょう)(ぶか)(ひと)は、(ひと)はどうなろうと自分(じぶん)だけは(たす)かりたいなどと(かんが)えることがない。むしろ、自分(じぶん)(たす)からなくとも(ひと)(たす)けようと(かんが)えている」と。

〔親御さんへ〕
志という字は面白くて、心+之(ゆく・士と同じ意)の会意兼形声文字、心が目標を目指して進み行くという意味です。まあ、心の向かう所と考えて良いでしょう。もっと分かり易く云うならば、「どうありたい?どうなりたい?どうしたい?のか!?」ということですね、志とは。関心の及ぶ範囲というか、志の射程圏というか、それが個人レベルで止まるか?血縁レベルで止まるか?地縁レベルで止まるか?人縁レベルで止まるか?時縁レベルにまで及ぶか?で、どうも人物のスケールが決まって来るようです。

これは善い悪いの問題ではありません、スケールの問題です。スケールという言葉が分かり難ければ、身の丈或いは度量と考えてもらって良いでしょう。「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや(小さな鳥には大きな鳥の志は分からない。小人物には大人物の志は分からない)」という陳渉の言葉があるけれども、人は自分のスケールでしか他人を推し測ることができませんから、自分のスケールを超えた人物に対して評価の物差しを持ちません。分からないのです。

1ℓの枡に10ℓを注ごうとしても、9ℓはこぼれてしまって測れないのと同じです。上には上があるし、下には下がある。これを自分のスケールを基準に相手を推し測ろうとすると、上に対しては過小評価となり、下に対しては過大評価となる。評論家と称する人達が陥りやすい落とし穴がこれですし、評論家のみならず我々凡人の陥り易い所でもある。

謙虚さを失ってはならないし、同時に神の子人間としての誇りも失ってはならない。謙虚さを失えば驕慢となり、誇りを失えば下卑(げび)となる。人物のスケールには上には上があり、下には下がある。十把一絡げにしてはいけない!福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と云いましたが、これは身分や門地によって貴賤が決まるものではないということを云ったのであって、人物のスケールを云ったものではありません。
 

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