〔原文〕
子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢。君子哉蘧伯玉、邦有道則仕、
邦無道則可卷而懐之。
〔読み下し〕
子日わく、直なるかな史魚、邦に道有るにも矢の如く、邦に道無きにも矢の如し。君子なるかな蘧伯玉、邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち巻いて之を懐にすべし。
〔通釈〕
孔子云う、「真っ直な人だなあ!衛の大夫史魚は。国に正道が踏み行われていようがいまいが、誰憚ることなく思う所を述べ思う所を行っておる。あたかも矢が飛ぶが如くに一途な人物だ。出来た人だなあ!蘧伯玉は。国に正道が踏み行われている時は世に出て大いにその志を行うが、正道が踏み行われない時は、その志を懐に秘めて身を退く。出所進退を心得た人だ」と。
〔解説〕
「孔子家語」困誓篇に史魚のことが次のように記されている。 “史魚は霊公に賢者である蘧伯玉を重く用いるよう諫言(かんげん)したが、霊公は彌子瑕(びしか)を重用して蘧伯玉を用いようとしなかった。史魚は重い病にかかり危篤となった時、息子を枕元に呼んでこう云い遺した、『私は永年朝廷にあって君に仕えて来た。この間幾度も蘧伯玉を用いるよう進言したが、我が君は彌子瑕を重用して私の進言に耳を貸そうとしなかった。これは誠に私の不徳の致す所である。生きて君を正すことが出来ないのであれば、死んで喪礼を受ける資格などない。私が死んだら屍を窓の外に放り出せ。さらばじゃ』と云って生きを引き取った。息子はこれに従った。
霊公が弔問に訪れた際にこれを目にし、驚いて息子に問い質すと、息子は父の遺言をそのまま公に告げた。これを聞いた霊公は『私が間違っていた』と深く悔い、彌子瑕を遠ざけて蘧伯玉を重用するようになった。
孔子がこれを聞き『古の烈しくこれを諫(いさ)めし者も、死すれば則ち止む。未だ史魚の若く死して死諫(しかん)し、忠その君を感ぜしめし者あらざるなり。直と謂うべからずや』と云った。”と。蘧伯玉については、憲問第十四368章で述べましたのでそちらをご覧下さい。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「衛国の大臣史魚はまっ正直な人で、国がよく治まっている時も乱れた時も、矢がまっすぐ飛ぶように正義を貫いた人だ。同じく衛国の大臣蘧伯玉は立派な人で、殿様が正しい政治を行っている時は先頭に立って国民をリードしたが、殿様が曲がった政治をした時には、責任をとっていつでもやめる覚悟で辞表を懐に入れていた」と。
〔親御さんへ〕
言論の自由・行動の自由・職業選択の自由が保証されている民主主義下の時代にあっては、史魚や蘧伯玉の行為は当たり前のように見えますが、絶対君主制の当時、一度君主の機嫌を損ねようものなら、打ち首にされるか?自害を命じられるか?追放されるか?いずれかでしたから、それこそ命懸けだった訳です。
北朝鮮に行って云いたいことを云い、やりたいことをやったらどうなるか?を想像してみれば、この当時(春秋末期)の時代背景が何となく分かるのではないでしょうか。論語の学び方には三段階あると常々申し上げております。
一は、訓詁(字句の解釈)・考証(時代考証)を主とした教養として学ぶ。
二は、現代事象に当てはめて、社会科学として学ぶ。
三は、自分の身に置き換えて、人生哲学として学ぶ。
論語を学ぶ上ではどれも大切で、皆さんにはすべてミックスして語るように心掛けておりますが、眼目はやはり三の自分の身に置き換えて学ぶ所にあります。一、二では、余所ごと他人ごとの域を出ません。当会設立の理念は「学真行道」・真理を学び道を行ずる、つまり、己を磨くことにある訳ですから、余所ごと他人ごととして学ぶだけで満足してもらったら困るんですね。だからたまにキツイことも云うんです、仲良しごっこの会ではないんだから。
自我の殻を剥ぎ取れ!肉体我(偽我)・感情我(戯我)・思考我(擬我)のガラクタに振り回されるな!本当の自分、神の子人間としての真我を光り輝かせよ!!と云うんだね。これが出来れば、ログ500程度の光エネルギーはあっと云う間に出て来るんですよ。元々すべてのログ1000・神の種(神性・仏性)が宿されているんだから。
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