〔原文〕
公伯寮愬子路於季孫。子服景伯以告曰、夫子固有惑志於公伯寮。
吾力猶能肆諸市朝。子曰、道之將行也與、命也。道之將廢也與、命也。
公伯寮其如命何。
〔読み下し〕
公伯寮、子路を季孫に愬う。子服景伯以て告げて曰わく、夫子固に公伯寮に惑える志有り。吾が力猶能く諸を市朝に肆さん。子日わく、道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯寮、其れ命を如何せん。
〔通釈〕
公伯寮が子路を季孫に讒言(ざんげん)した。魯の大夫の子服景伯がこれを孔子に告げて、「季孫氏はどういう訳か公伯寮に乗せられてしまう傾向がある。私の権限で公伯寮を誅殺して市場で晒し首にすること位はできますが、いかが致しましょうか?」と云った。孔子は、「放っておきなさい。道理が通るも無理が通るもみな天の計らいで、人の力ではどうすることもできぬ。ましてや公伯寮如きが、天の計らいをどうすることができましょう。ご心配には及びませんよ」と云った。
〔解説〕
公伯寮 姓は公伯
名は寮字は子周。孔子の弟子であったという説もありますが、間違いか同姓同名の別人でしょう。孔子が弟子を呼ぶ際は、名で呼んでおりましたから、公伯寮が弟子ならば「寮」と呼ぶ筈で、フルネームでは呼びません。
子服景伯 姓は子服 名は何(か) 字は伯
景は諡。三桓孟孫氏の一族で魯の大夫。この人は子張第十九504章にも登場しますが、孔子一門に好意を寄せていたのではないでしょうか。かなり権力のあった人のようで、殺して晒し首にしようか?という位ですから、公伯寮は子路のことをかなりひどく讒(そし)ったのでしょう。
「道の行われんとするや、命なり。道の廃れんとするや、命なり」を直訳すれば、「正道が踏み行なわれるのも天命ならば、正道が廃れるのも天命」となりますが、しっくる来ませんので上記の如く釈しました。
現代は科学万能信仰が蔓延しておりまして、人の力で知り得ない・為し得ないものなどない!と考えている人が結構いるようですが、最近の天体物理学で分かって来たことは、宇宙の構成は、物理の世界4%、非物質(暗黒物質・暗黒エネルギー)の世界96%になっているそうで、最先端の科学者が、今必死になって非物質世界の正体を突き止めようとしていると、NHK教育テレビ「サイエンスZERO」で紹介しておりました。
ちょっと乱暴な推論かも知れませんが、この宇宙の中で人知人力の及ぶ世界はたった4%、人知人力の及ばぬ96%の世界が天命と解釈すれば、孔子の云うことはもっともだ!と頷けます。「人事を尽くして天命を待つ」(南宋・胡寅(こいん))という名言は、真理を語ったものなんですね。やれるだけのことをやったら、ジタバタしない方がいいね!あとは神様にお任せした方がいい、成るも成らぬも、生きるも死ぬも。
〔子供論語 意訳〕
公伯寮という人が、弟子の子路にぬれぎぬを着せようと、大臣の季孫に訴えた。これを知った子服景伯という大臣が、先輩である孔子様に、「季孫さんは公伯寮をえこひいきしていますから、ちょっとヤバイことになるかも知れません。公伯寮をこらしめてやりましょうか?」といった。孔子様は、「心配しなくていい。子路にやましいことがなければ、きっと神様が守ってくださる。神様はすべてお見通しなのだから」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
前にも云いましたが、「神様はすべてお見通し!」などというと、安心する人もいれば、逆に心配になる人もいる。中には何も感じない人もいる。どれがどうということではないけれども、ちょっと心配になる位の方が丁度いいんじゃないのかな?我々凡人は。
完璧な人など一人もいませんから、いつどこで知らずに過ちを犯してしまうか分からない。何度も云うようですが、人間は知って犯す過ちよりも、知らずに犯す過ちの方が断然に多い生きものですからね。知らずに人を傷つけてしまうことって結構あるものです。人に傷つけられることに対しては敏感だけれども、人を傷つけることに対しては鈍感だからなあ、我々は。
たまには、「もしかして知らずに人様を傷つけることがなかっただろうか?」と心配してみるのもいいんじゃないのかね!?「心配」の本来の意味は、心を配る、つまり「心遣い」のことなのだから。
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