〔原文〕
或曰、以徳報怨、何如。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳。
〔読み下し〕
或るひと曰わく、徳を以て怨みに報いば何如。 子日わく、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん。
〔通釈〕
ある人が、「悪意に対しては善意を以てせよ!という言葉がありますが、いかがなものでしょうか?」と問うた。孔子は、「ならば善意に対しては何を以てするのかね?悪意に対しては誠意を以てし、善意に対しては善意を以てするのが良いのではないかな」と云った。
〔解説〕
「老子」第六十三章に、「報怨以徳・怨みに報いるに徳を以す」とありますから、この「或るひと」とは、ひょっとしたら老子の知人で、周から孔子を訪ねて来た人かも知れませんが、何も記録がありません。
ここで云う「怨み」と「徳」をどう解釈したら良いか?悩みましたが、怨みを悪意、徳を善意、直きを誠意と解することで一応納得の行く通釈になったのではないかと思います。孔子も老子も「報怨以怨・怨みに報いるに怨みを以てす」と云ってはおりません。悪意に対して悪意を以てすれば、「目には目を!歯には歯を!」となって、復讐が復讐を呼んでしまう。
この「目には目、歯には歯」を以て対処することを是とする教えは、旧約聖書とコーランに見られ、『同害復讐法』と云います。ユダヤとアラブが延々と泥沼の報復合戦を演じているのも、この同害復讐法があるからなんですね。「怨み心で怨みは解けぬ」と云いますが、「悪意に対しては誠意を以てせよ!」という孔子の言葉には、ウームと唸らされます。怨みは解けなくても、少なくとも復讐の連鎖は避けられますからね。
〔子供論語 意訳〕
あるひとが、「いやなことをされてもやり返さず、今まで以上に仲良くしてあげなさい!という人がいますが、どうでしょうか?」と質問した。孔子様は、「それができたら立派だが、はたして今の君達にできるかな?いやなことに対しては率直にやめなさい!といい、いいことにたいしては素直にありがとう!ということの方が実行しやすいのではないかな」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
戦乱の続く春秋末期、「目には目、歯には歯」つまり、「怨みに報いるに怨みを以てせよ!」が当たり前であった時代に、孔子や老子の「以直報怨」・「報怨以徳」なる主張は、将に革命的でした。
500年後のユダヤでは、「目には目!歯には歯!」の同害復讐法を是とする旧約の教えがある中で、イエスは、「右の頬を打つ者がいたら、左の頬も出しなさい!汝の敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい!報復してはいけない!!」と唱えた訳ですが、それこそ命懸けだったに違いありません。理不尽なことをされたら、カッとなって仕返ししてやりたい!と思う気持ちは誰にでもあると思いますが、やり返したら復讐の連鎖の罠にはまってしまう。
インドでは釈迦が、「忍辱(にんにく)」辱めに耐え忍べ!怨み心を持つな!と云っている。孔子は「以直報怨」と云い、釈迦は「忍辱」と云い、イエスは「迫害する者の為に祈れ」と云う。三大聖人がいずれも「人を怨むな!」と云っているってことは、怨み心は自分の魂を傷付ける猛毒である!ということなんですね。
怨念は邪念の代表的なものですが、アメリカの心理学者スコット・ペックは、邪念の根源を@知的怠惰・・・無知・無明と、A病的なナルシシズム・・・病的な自己愛にあると云っている。
イエスはゴルゴダの丘で磔にされる時、「神よ彼らを許したまえ。彼らは自分のやっていることが分かっていないのですから!」と祈ったとありますし、孔子は次章で「天を怨みず人を尤(とが)めず」と云っている。ここまでなれるものなんですね、魂を極限迄鍛えた人は。私なんかすぐ「コンチクショウ!」となってしまうからね。恥ずかしいね。
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