〔原文〕
微生畝謂孔子曰、丘何爲是栖栖者與。無乃爲佞乎。孔子對曰、非敢爲佞也。
疾固也。
〔読み下し〕
微生畝、孔子に謂いて曰わく、丘、何為れぞ是栖栖たるものぞ。乃ち佞を為すこと無からんや。孔子対えて日わく、敢て佞を為すに非ざるなり。固を疾めばなり。
〔通釈〕
孔子の先輩で隠者の微生畝が、「丘よ、お前はどうしてそんなにあくせくと動き廻っているのか?世間に媚び諂っているとしか思えんぞ!」と云った。孔子は、「私は別に世間に媚びている訳ではありません。我(が)に囚われて独り善がりになるのが嫌なだけです!」と答えた。
〔解説〕
微生畝 姓は微生(びせい)名は畝(ほ)。孔子の先輩で穏者であったとされる。この頃、穏者はどこにでもいたようで、微子第十八にも何人か登場して来ます。
「小聖は俗世を捨てて山に棲み、大聖は俗世とともに街に棲む」と云いますが、仏教でいう「小乗」と「大乗」の違いと考えて良いでしょうか?小乗とは、衆生の救済を忘れて自分独りだけの悟り・「自利」を専らとするのに対し、大乗とは衆生救済を中心に捉えた奉仕・「利他」を専らとする立場を云いますからね。
小乗を声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の境地、大乗を菩薩・如来の境地に喩えることもありますが、キネシオロジーテストで云うログ350〜499が小乗の意識レベル、ログ500〜1000が大乗の意識レベルと云って良いでしょう。
小乗から大乗への最後の決め手は、やはり自我の殻に閉じ篭って「思考我」こそ我れと思い込むか?自我の殻を叩き壊して真我の光を輝かせるか?にあるようですね。思考我(擬我)を中々剥ぎ取れない理由の一つに、それを無くしたらアイデンティティー(自己の存在証明)を失ってしまうのではないか?という恐れがあるのではないかと思います。
はっきり申し上げて、それは錯覚です。思考我から来るアイデンティティーはガラクタみたいなものです。ガラクタは早く捨て去った方がいい。思考我を剥ぎ取った時に、神の子としてのあなたの本当の光り輝くアイデンティティーが出て来るんです!すべての人間は、潜在的にログ1000(神の種)を宿した存在なんですから。
〔子供論語 意訳〕
孔子様の先輩で山に隠れて自給自足の一人暮らしをしている微生畝いう人が、「丘よ(孔子の名)、お前はどうしてそんなにあくせくと働かねばならんのか?世間の目を気にせず俺と一緒に気楽に暮さないか!?」といった。これに対して孔子様は、「私は別に世間受けを狙ってあくせくしている訳ではありません。自分さえ良ければと殻に閉じこもって独り善がりになっているのがいやなんです。近所で困っている人がいたら、助けてあげるのが当たり前じゃないですか!?」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
最後のワンフレーズは付け足しになりましたが、この方が子供達には分り易いでしょう。人はすべからく血縁・地縁・人縁・時縁の中で生かされているのであって、ポツンと分離孤立して生きている人間など一人もおりません。
「イ〜ヤ、俺は天涯孤独だ!」などと息巻いてみた所で、「じゃあ君を産んでくれたのは誰なんだ?」と問われれば、「親だ!」と答える他はない。「しかし、赤ん坊の時に捨てられた!」と反論してみても、「じゃあ誰が育ててくれたんだ?誰が言葉を教えてくれたんだ?誰が文字を教えてくれたんだ?誰が仕事を教えてくれたんだ?」となると、もう返す言葉がありません。
今こうやって人間として生きていられるってことは、人に育てられたから人間でいられるのであって、猿に育てられれば猿でいる他はないし、狼に育てられれば狼でいる他はないんですね、インドの狼少女アマラとカマラのように。
人は自分一人で生きている存在ではないんです、様々な縁によりて生かされている存在なんです。ここが分かれば、血縁・地縁・人縁・時縁どれ一つとして粗末にできないものばかりです。だから口を酸っぱくして云うんです、「縁を大切にする者は縁によりて活かされ、縁を粗末にする者は縁に見捨てられる!」と。私ごときが生意気にも、「孔子教学は別名『活縁の学』である!」という理由もここにあるんですね。
近頃どうも商売がうまく行かない!?人間関係がうまく行かない!?という方は、ここをよく反省してみたら良い、「縁を粗末にして来なかったか?」を。縁を大切にしても商売がうまく行くとは限らないのに、縁を粗末にしたら、繁盛する筈がないでしょう?虫が良過ぎるってもんですよ、それは!
店主がお客様の顔と名前を千人くらい覚えられなくてどうします!?立地がどうの?競合店がどうの?景気がどうの?と云う前に、まず商売のいろはを実践してみなさい!縁を活かす「活縁する」ということを。商売は「する」ものじゃない、「させてもらう」ものだ。何故か?それは、お客様との縁があって初めて成り立つものだから。
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