〔原文〕
子曰、不逆詐、不億不信、抑亦先覺者、是賢乎。
〔読み下し〕
子日わく、詐を逆えず、信ぜられざるを億らずして、抑亦先ず覚る者は是れ賢か。
〔通釈〕
孔子云う、「欺(だま)されるのではないかと身構えることもなく、疑われるのではないかと心配することもなく、直感的に人を見抜くことのできる人物は、賢者であろうか?賢者であろう」と。
〔解説〕
一体孔子はどのような場面でこの言葉を発したのでしょうか?普段接している人とは全く異質なタイプの人に出会って、面食らってしまったのかも知れません。老子と初めて面会した時の発言ではないでしょう、老子を天下の賢者と知った上で、わざわざ周まで会いに行ったのですから。
恐らく読心術の心得のある仙人のような人に出会して、一瞬のうちに心の中を読み取られてしまった為、ギョッとしてこのような言葉になったのではないでしょうか?人生経験途上の三十代の言葉かも知れません。「六十にして耳順う」つまり、六十になって、何を聞いても動じなくなった人ですから、少なくとも晩年の言葉でないことだけは確かです。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「騙されるのではないかと警戒することなく、疑われるのではないかと心配することもなく、素直に相手の気持ちを受け入れられる人は、心の広い人だ」と。
〔親御さんへ〕
人の性は本来善であるとする孟子の「性善説」、これに対して、人の性は本来悪であるとする荀子の「性悪説」、どちらが本当か?これはもうここ迄学んで来られた皆さんには愚問でしょう。
新年合同例会で「中庸」講義をやり(ホームページに掲載中)、その後の月例会でも特別講義をやりましたから、充分腑に落ちていることと思います。もし人間の性が本来悪であるならば、人間社会に於ける暗黙の信頼関係は成り立ちません。否、社会どころか親子・兄弟・夫婦・男女・友人の間でさえ信頼関係が成り立ちません。何故か?暗黙の信頼関係が成立するには、その前提に人の性は善である!という暗黙の了解があるからです、意識しないけれども。これは、どんなに猜疑心の強いヒネクレ者であっても否定できない事実です。
子供の頃、母が作ってくれる料理やみそ汁に、もしかして毒が盛ってあるのではないか?などと思ったこともないでしょう。彼女が贈ってくれたバレンタインチョコレートに、毒が仕込んであるんじゃないか?などと考えたこともないでしょう。何の警戒もなく「いただきます!」と喜んで食べるじゃないですか!何の警戒も疑いもないということは、そこに暗黙の信頼があるからでしょう?暗黙の信頼があるってことは、いちいち意識しないけれども、人の性は善良という暗黙の了解があるからでしょう!
では、一人一人の人間に、どうして人の性は本来善という暗黙の了解があるのか?赤ん坊の頃から誰も教えてくれる者がいないにもかかわらず。これがどういうことか分かるかな?サアどうかな?
実はここが、すべての人間は神の子である!神の種(神性)を宿した善なる存在である!!という動かぬ証拠なんです。神の子同士だからお互いに暗黙の了解があるんです。神の子だから、愛し合い・生かし合い・許し合うのが当たり前と、潜在意識で分かっているんですね、万人が。
人の性が本来悪で悪魔の種を宿した存在であるならば、暗黙の了解は勿論、暗黙の信頼関係など成り立つ筈がないんです、騙し合い・奪い合い・傷つけ合うのが常道ですから。この、人の性は本来善であるということが、近年科学的に証明されるようになって来た、脳の研究が進んで。“人間の脳には元々ミラーニューロンという神経細胞あって、他者の身になることによって他者の経験を共有する共感本能がある。他者を思いやる善なる心は人間の本性である”と。
更に面白いことは、“人間のみならざ、すべての哺乳類に未発達ながらミラーニューロンが見られるが、爬虫類には見られない”そうでありまして、他者を思いやる善良な心を持たない人は、さしづめ人間の皮を被ったヘビかトカゲの類ってことになりますかな?
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