〔原文〕
子貢方人。子曰、賜也賢乎哉。夫我則不暇
〔読み下し〕
子貢人を方ぶ。子日わく、賜や賢なるかな。夫れ我は則ち暇あらず。
〔通釈〕
子貢はよく人を批判した。孔子はこれを見て、「何様のつもりになっているんだ?賜は!私は自分のことで精一杯で、とても人様を批判している暇などないよ」と云った。
〔解説〕
「賜や賢なるかな」を直訳すれば、「さても賢いことよのう?賜は!」となるのでしょうが、孔子の本音は、「何様のつもりだ!?」と云いたかったのだろうと慮って、このように釈しました。
ただ、子貢程の人物ですから、その批判は的を射たものだったのでしょうが、史記仲尼弟子列伝に『喜(この)んで人の美を揚げ人の過ちを匿すこと能わず』とありますから、人の過ちについて徹底的に批判を加えることはしても、美点については何も触れなかったのでしょう。孔子は、フェアでない子貢の態度が普段から気になっていた。そこである時、「何様のつもりだ!?」となったのではないでしょうか。
〔子供論語 意訳〕
弟子の子貢はよく人を批判した。ある時これを見た孔子様は、「何様のつもりになっているんだ、君は!?人をとやかくいう暇があったら、自分にもそういう所がないか?人のふり見て我がふりを直しなさい!そうすれば、人様を批判している暇などないはずだがねえ」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
批判と云うと、否定的内容を含んで云う場合が多いものですが、本来は、人物・行為・判断・学説・作品などの、価値や能力や正当性や妥当性を評価することを云います。哲学用語では、認識能力を吟味するの意に使われます。
ですから、決して悪いことばかり云うのが批判ではないのですが、テレビのワイドショーや週刊誌で人の悪口ばかり言い触らすものですから、殆どの人が批判イコール悪口と勘違いしてしまう。
人の悪口と揚げ足取りばかりの批判精神では困るけれども、物事の正当性や妥当性を吟味する批判精神は絶対に必要です。人間がこれをなくしたら、裸のサルになってしまいます。否、最近はケータイを持ったサルかな?但し、物事を批判するには、批判するだけの教養・識見・眼力が要る。それもないのにとやかく云うのは、料簡違いと云うものです。料簡違いの批判をしていると、「何様のつもりだ!」と孔子に叱られますよ。
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