〔原文〕
子曰、其言之不怍、則其爲之也難。
〔読み下し〕
子日わく、其の言を之れはじざれば、則ち之を為すや難し。
〔通釈〕
孔子云う、「できもしないことを云ってしゃあしゃあしているようでは、恐らく何をやらせてもダメだろう」と。
〔解説〕
若いうちなら多少のハッタリもご愛敬、しゃあしゃあしているのも肝っ玉が座ったように見えるものですが、四十過ぎてもまだこのままで居ると、イカサマ野郎のレッテルを貼られて世間から相手にされなくなってしまいます。それでも懲りず、五十を過ぎてもやっていればペテン師と云われ、六十を過ぎても変わらなければ、気違い扱いされてしまうこととなる。いるでしょう?皆さんの身の周りにも・・・。
若い頃、荒唐無稽なことを云って粋がっていると、「出来もしないことを云う暇があったら、出来ることからやれ!」と祖母に叱られたものです。祖母が論語を読んでいる姿は見たことがありませんが、昔の人には常識だったんでしょうね、この程度のことは。
明治生まれの人は殆ど亡くなって、大正生まれもあと数年もすれば居なくなります。昭和生まれのジイさんバアさんが、今度は古き良き我が国の伝統精神を平成生まれの孫達に伝えて行くことになる訳だけれども、大丈夫かね?このジイさんバアさん達は!?ちゃんと伝えて行けるのかなあ・・・。明治生まれのジジ・ババは恐かったよ!ヤワなことをやっていると、いきなりゲンコツが飛んで来たからねえ!
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「自分の発言に責任を持たず、しゃあしゃあしていられる人は、やること為すことうまく行かないだろう」と。
〔親御さんへ〕
間違ったことを云ったことに後で気付いて、穴があったら入りたい程恥ずかしい思いをした経験は誰にでもあるでしょう。その時は、「言葉は控えめにしなければならんな!沈黙は金だな!?」と反省するのですが、時間が経つと又やってしまう。
気付かずにいると、今度は友人が間違いを指摘してくれる、「あれはこうじゃないのか?」と。これは有難いものです、間違いを指摘してくれる友は。指摘してもらえなかったら、間違いに気付かず一生うすぼんやりとしていたかも知れない。それを、「何を、こしゃくな!」と突っ張ってみたり、謙虚に耳を傾けなかったりすると、「こいつも最早これ迄!」と、誰も忠告してくれなくなる。孔子の云う、「・・・、則ち之を為すや難し」です。
新興宗教の教祖や精神修養団体の指導者が、初めは良かったが、段々鼻持ちならなくなって来て、遂には裸の王様と化してしまうのは、決まってこれ、誰も間違いを指摘してくれなくなった時。
その点孔子は偉かった、述而第七180章で陳の司敗に間違いを指摘された時、「丘や幸いなり。苟(いやし)くも過ち有れば、人必ず之を知る」と感謝している。出来た人物か下らない人物か?の分かれ目は、間違いを指摘された時に、素直に聞く耳を持っているか持っていないか?で決まるようですね。
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