憲問第十四 359

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〔原文〕
子路曰、桓公殺公子糾。召忽死之、管仲不死。曰、未仁乎。

子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁

〔読み下し〕
()()()わく、桓公(かんこう)公子(こうし)(きゅう)(ころ)す。召忽(しょうこつ)(これ)()し、(かん)(ちゅう)()せず。()わく、(いま)(じん)ならざるか。()(のたま)わく、桓公(かんこう)諸侯(しょこう)九合(きゅうごう)するに、兵車(へいしゃ)(もっ)てせざるは、(かん)(ちゅう)(ちから)なり。()(じん)()かんや、()(じん)()かんや。

〔通釈〕
子路が、「斉の桓公が兄の公子糾を殺して政権を握った際、糾の側近であった召忽は殉死しましたが、同じく側近であった管仲は殉死しなかったばかりか、仇敵である桓公に仕えました。これは不仁の極みと云えませんか?」と問うた。

孔子は、「その当時は周室の勢力が既に衰えておって、諸侯は王の命に服さず、夷狄は混乱に乗じて中原を窺うというあり様であった。この時桓公が武力を用いず諸侯を糾合して夷狄を追い払い、周室の威信を守ることが出来たのは、ひとえに管仲の力によるものである。確かに殉死しなかったのは不義理であることに違いないが、天下を平定し王の威信を守った功績を考えれば、管仲は小義よりも大義に殉じた大人物と云えよう。召忽の仁義は管仲の仁義に及ぶべきものではないよ」と云った。

〔解説〕
本章はそのまま訳したのでは何故子路がこのような質問し、それに対して孔子がなぜこのように答えたのか?よく分かりませんので、意味が通るように文言を補って通釈してみました。親切すぎますかねえ?私の通釈は…。

本章を挾む前後数章の章立ては非常によく出来ておりまして、孔子が生れる百年程前からの偉人・英雄・賢者を次々に登場させて、孔子にその人物胆を問う型で纂輯(さんしゅう)されている。編者の苦心の跡が窺えます。

私達の感覚で云えば、丁度幕末・維新から明治時代にかけて活躍した人物を扱っているようなもので、無理を承知で敢て擬(なぞら)えてみるならば、352章に登場する子産は伊藤博文、353章の孟公綽は西郷隆盛、356章の公叔文子は福沢諭吉、357章の臧武仲は大久保利通、358章の晋の文公は山県有朋、本章の召忽は小栗上野介(こうずけのすけ)、同じく本章の管仲は勝海舟…、と云ったところでしょうか?勿論別の見方もあって当然ですが、こんな読み方が出来るのも、論語の大きな魅力の一つですね。

〔子供論語 意訳〕

弟子
(でし)
()()が「(いま)から百年(ひゃくねん)ちょっと(まえ)(せい)(くに)後継者(こうけいしゃ)(あらそ)いで桓公(かんこう)(あに)公子(こうし)(きゅう)(たたか)(きゅう)()けた(とき)部下(ぶか)召忽(しょうこつ)という(ひと)主人(しゅじん)(きゅう)一緒(いっしょ)()()にしましたが、(おな)じく部下(ぶか)であった(かん)(ちゅう)()()にしなかったばかりか、敵方(てきがた)桓公(かんこう)家来(けらい)になりました。これは裏切(うらぎり)行為(こうい)はないでしょうか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は「その当時(とうじ)(くに)全体(ぜんたい)混乱(こんらん)しておって、北方(ほっぽう)()蛮人(ばんじん)侵略(しんりゃく)()けていた。この時桓公(ときかんこう)軍事力(ぐんじりょく)使(つか)わず(くに)平定(へいてい)()蛮人(ばんじん)()(はら)うことができたのは、みな(かん)(ちゅう)活躍(かつやく)によるものだ。(せま)()()れば(たし)かに(かん)(ちゅう)(もと)主人(しゅじん)(うら)()ったかも()れないが、(ひろ)()()れば、(くに)混乱(こんらん)から(すく)国民(こくみん)侵略(しんりゃく)から(すく)った功績(こうせき)はかけがえのないものだ。召忽(しょうこつ)はお(いえ)(ため)(いのち)(ささげ)げ、(かん)(ちゅう)はお(くに)(ため)(いのち)(ささ)げた。だから(かん)(ちゅう)偉大(いだい)功績(こうせき)百年後(ひゃくねんご)今日(こんにち)でもたたえられているんだよ。(きみ)もものごとを(せま)視野(しや)でとらえずに、もっと(ひろ)視野(しや)でとらえてごらん」とおっしゃった。


〔親御さんへ〕
これは私達も気を付けなければなりません。個人の正義が家族・血族集団(血縁)に通用するとは限らない、家族・血族集団の正義が学校・職場・地域社会(地縁)に通用するとは限らない、学校・職場・地域社会の正義が国家・民族(人縁)に通用するとは限らない、国家・民族の正義が地球・人類同胞(時縁)に通用するとは限らない。

これを弁えず行動すると、「アホか?あいつは!」となって野暮天(やぼこき)のレッテルを貼られてしまうこととなる。小さい所ではゴミ屋敷や騒音オバサン、中位の所では某お菓子メーカーや耐震強度偽装のホテル、大きな所ではアメリカや中国、あれみな野暮天(やぼこき)でしょう?大野暮天になると、軍隊まで出動させてヤボをこくから、周りは大迷惑します。

高度に進化した異星人から見たら、地球は猿の惑星にしか見えないんじゃないでしょうか?野蛮をこく為に軍隊を出動させるなんて…、石油よこせ!領土よこせ!と。現状に埋没してしまうと、我々凡人はそれが当たり前のことと勘違いして、何も疑問を抱かなくなってしまうけれども、自己を相対化して一歩高い視点から眺めてみれば、何とも小恥ずかしくて滑稽なことであったか!?と後悔することがよくある。

明末の哲人洪自誠は『菜根譚』の中で、「身を立つるに一歩高くして立たざれば、塵裡(じんり)に衣()を振るい、泥中(でいちゅう)に足を濯(あら)うが如し。如何ぞ超達せん。世に処するに一歩退いて処()らざれば、飛蛾(ひが)の燭(しょく)に投じ、羝羊(ていよう)の藩(まがき)に触るるが如し。如何ぞ安楽ならん」と述べておりますが、自己を相対化して一歩高い視点から己を眺めて見る習慣、或は一歩身を引いて客観的に眺めて見る習慣を身に付けたいものです。

こうすると自然に野暮はこけなくなります、恥ずかしくて。こういうことは皆頭では分かっているけれど、実践できなければ何にもならないんです。野暮をこいちゃあいけないよ!!アホか?こいつは!となっちゃあいけない!!結構いるんです、人のことはよく見えるけれども、自分のこととなると盲目だから。

YABO is when your mind says OK! but your mouth opens up says NO!”「野暮とは、心はいいよいいよ!と云っているのに、口が勝手に開いてまかりならん!!と云っている状態を云う」って所かな。
 

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