〔原文〕
子貢曰、管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之。子曰、管仲相桓公、
覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜。微管仲、吾其被髪左衽矣。
豈若匹夫匹婦之爲諒也、自経於溝瀆而莫之知也。
〔読み下し〕
子貢曰わく、管仲は仁者に非ざるか。桓公、公子糾を殺して、死する能わず、又之を相く。子曰わく、管仲、桓公を相けて、諸侯に覇たらしめ、一たび天下を匡す。民、今に到るまで其の賜を受く。管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。豈匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に経れて之を知るもの莫きが若くならんや。
〔通釈〕
子貢も子路と同じ疑問を抱いたとみえて、「管仲は裏切り者ではないでしょうか?桓公が公子糾を殺した際、殉死しなかったばかりか仇敵の桓公に仕えてこれを補佐しておりますが?」と問うた。
孔子は、「管仲は桓公を輔けて中原の覇者たらしめ、周室を守って天下を平定するという偉業を成し遂げた。人民は今日に至る迄その恩恵を被っている。もし管仲がいなかったら、今頃は夷狄に征服されて、ざんばら髪で左前に着物を着るという野蛮人の風習に同化させられていたことだろう。
ばかな男女が小さな義理立ての為に、自ら溝の中で首を括って死ぬのをよしとして、誰もその死んだことさえ知らぬようなつまらぬ仁義と訳が違うのだ!」と云った。
〔解説〕
管仲の偉業と対比する為に引いた結語、「豈匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に経れて之を知るもの莫きが若くならんや!」と吐き棄てるように語る孔子の言葉には、前々から異様な雰囲気というか、孔子の憤りの念のようなものを感じておりました。
相手がピンボケ樊遅ならいざ知らず、孔門随一の切れ者子貢に語っている訳ですから、この比喩はあまりにも唐突で下世話に過ぎる。この引用は、ひそかに情を通じ合った男女の心中話しを喩えたものでしょう?
孔子の妻幵官氏は、弟子の一人と駈落したという説があります。(白川静先生もこの説をとっている)考証学的証拠は何もないけれど、幵官氏は駈落した弟子と心中したのではないでしょうか?死に装束は左前に着せるという習慣は、遣唐使によって中国から伝えられたものだと云われますが、孔子の頃既にこのような風習があったのではないか?
夷狄の左前の話しが口から出た途端、ふと情死した妻のことが頭に浮かんだ、つまり、夷狄=みっともない、みっともない=左前、左前=死、死=妻の情死と瞬時に脳のシナプスがつながって、ついつい吐き棄てるような言葉になったのではないか?
論語全510章中、孔子が吐き棄てるように語っているのは、本章と公治長第五102章「宰予昼寝ぬ。子曰わく、朽木は彫るべからず、糞土の牆は塗るべからず!」以外には見当りません。余程腹に据えかねることだったのでしょう。これは私の憶断に過ぎませんから、皆さんはこの説を入れる必要など少しもありません。自分なりの解釈があって当然です。ただ、いつもひっかかるんですね、この章の結語には…。
子貢がいつ、どのようなきっかけで入門したのか?何も記録はありませんが、恐らく孔子が政争に敗れて衛に亡命した時に弟子入りしたのではないかと思います。この時孔子は54才、子貢は孔子の31才年下ですから23才ということになる。孔子が結婚したのは19才の時、幵官氏は4〜5才下と思われますから15才。昔は早熟で、女性は33才で賞味期限切れとされていたそうでありまして、駈落するとすればそれ以前でしょう。(30才前に殆どの人が亡くなった)
孔子35才の時、昭公が斉に亡命しますが、この時孔子はしばらく斉に行っている。幵官氏が弟子の誰かと駈落するとすればチャンスはこの時をおいて他にない。息子の鯉は15才になっており、自活できる。娘の嬈(じょう)は公治長に嫁がせた。
今がチャンス!雅高(がこう)さん、逃げましょう!!」となったのではないか?雅高はあまり気乗りがせず「アノー、ソノー、って云うかあ〜」と曖昧な返事を繰り返すが、幵官氏は許さない、「あなた、男でしょ!?はっきりしなさい!!」と強く迫る。気迫に圧倒された雅高は心ならずも、「そうだ!俺は男だ!!行こうか、ジェシカ!!」と空元気を出したは良いが、果たして二人の行くあてはない。
仕方なく雅高の郷里燕(えん)に行くが、気丈な母は織りかけの機を断って、「織りかけの機を途中で断ってしまえば使いものにならない。学問も途中で止めれば使いものにならない!」と追い返す。(これが有名な『雅母断機の教え』)途方に暮れた二人は汾水(ぶんすい)のほとりに行き、野積橋(やせききょう)から身を投げた。時に孔子35才、幵官氏30才、雅高(がこう)年齢不詳…。
この心中事件から二十年、衛に亡命した孔子は、この地で出会った子貢から管仲の人物評を問われ、フトこの事件を思い出す。話した後で、まだ二十年前のこの事件にこだわっている自分に気付き、こりゃいかん!と猛省する。それから五年、還暦を迎えた孔子は、四(よつ)を絶つ、「意母(な)く、必母く、固母く、我母し」(子罕第九21
2章)。そして「六十にして耳順う」、すべての執着から開放されて、何事にも動ずることのない変通自在の境地を得た。つまり、この時が大人物孔子から聖人(救世主)孔子に変貌を遂げた歴史的瞬間である。
余談であるが、二人が橋から身を投げた際、雅高は袴(はかま)の裾(すそ)が欄干にひっかかり、もがいている所を村人に救助されて、白岩(はくがん)里(り)で天寿を全うしたと伝えられている。雅高(がこう) 姓は雅(が)名は燕(えん)字は子高(しこう)、二階堂の人。(弟子名一覧表を見よ)
〔子供論語 意訳〕
子貢も子路と同じ疑問を抱いていたので、「管仲は裏切者ではないでしょうか?桓公が兄の公子糾を殺した際、主人の糾と一緒に討ち死にしなかったばかりか、敵である桓公の家来になって総理大臣にまで昇りつめておりますが?」と質問した。孔子様は、「管仲は桓公を補佐して実力ナンバーワンの大大名に出世した。又、天下を平定して外国の侵略を未然に防いだ。国民は今でもその恩恵をこうむっている。もし管仲がいなかったら、今ごろ我が国民は、外国の言葉をしゃべらせられ、外国の生活様式を強制させられていただろう。君も子路同様、ものごとを狭い視野でとらえず、もっと広い視野でとらえてごらん」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
前章の解説で、管仲は勝海舟にそっくりだ!と申しました。考えてみれば、勝は崩壊前の徳川幕府に仕えたが、西郷隆盛との談判で腹が決まり、将軍慶喜(よしのぶ)を説得して大政を天皇に奉還せしめ、国体を護持して欧米列強の侵略を未然に防いだ。
維新後は、海軍卿・枢密顧問として明治政府に重きを成した訳だから、姿形こそ違え、管仲の生き様にそっくりです。「勝海舟なかりせば、吾その宗旨を耶蘇に変え、その言語をアルファベットにせん!」と中南米やフィリピンと同じ状況になっていたかも知れません。
日清・日露戦争は江戸時代に生れた人達が指揮して勝った。大東亜戦争は明治時代に生れた人達が指揮して負けた。江戸時代末期は、傑出した人物が集中的に生れてきた時代だったようです。キネシオロジーテストで測定してみると、幕末〜維新にかけて活躍した人物の中には、ログ500以上・菩薩の魂を持った人達がゴロゴロ居る。中にはログ700〜800を越える梵天・如来の魂も数名います。誰とは云いませんが、興味のある方は自分で測ってみて下さい。現代は地球規模での大転換期ですから、幕末以上に菩薩・梵天・如来の魂が大挙して転生して来ています。
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