〔原文〕
子曰、晉文公、譎而不正。齊桓公、正而不譎。
〔読み下し〕
子曰わく、晋の文公は譎りて正しからず。齊の桓公は正しくて譎らず。
〔通釈〕
孔子云う、「晋の文公も斉の桓公もともに五覇の一人だが、文公は権謀術策を用いて正道によることがなかった。これに対して桓公は正道を踏み行って権謀術策を用いることがなかった」と。
〔解説〕
春秋時代の十二列国・・・魯・衛・晋・鄭・曹・蔡・燕・斉・宋・陳・楚・泰。(これに呉を加えることもある)その中でとりわけ強大な国力を有し、天子を助けて天下に号令を発した諸侯を「春秋五覇」と云う。
春秋五覇…齊の桓公・宋の襄公・晋の文公・泰の穆公・楚の荘公。晋の文公の策謀に興味のある方は、左伝僖公二十七年〜二十八年の条を読まれたし。
又、今から12〜3年前に小説『重耳(ちょうじ)』がベストセラーになったことがありますが、重耳とは晋の文公のことです。まだ絶版になってないと思いますし、古本屋に行けばあると思います。小説『重耳』は、史記の「晋世家」を元に書かれたものですが、よく出来ています。読んで損はないでしょう。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「晋国の殿様の文公は、結果さえ良ければ手段はどうでも
いい、という人であったが、斉国の殿様桓公は結果以上に手段を大切にする人であった。君達にはぜひとも桓公を見習ってほしい!」と。
〔親御さんへ〕
The end well all the well!!(結果良ければすべて良し!)という俗諺があります。結果と一口に云っても、終日(一日)の計もあれば一年の計もあり、十年の計もあれば終生(一生)の計もある。終生の計から見れば十年の計は手段(プロセス)、十年の計から見れば一年の計は手段、一年の計から見れば終日の計は手段とも云える。
斉の文公に仕えた管仲は、「一年の計は穀を樹うるに如くはなく、十年の計は木を樹うるに如くなく、終身の計は人に樹うる如くはなし」と述べている。管仲は国家運営の要諦について語ったものですが、「穀」を日々の選択、「木」を年相応の主題(テーマ)、「人」を徳の涵養に置き換えて読んでみれば、この言葉もぐんと生きて来るのではないのでしょうか。
つまり、日々の選択も年相応のテーマも、その手段や結果は次なる主題(テーマ)の原因となり、それらの連鎖のすべては生涯かけて徳の涵養、人物の涵養に収斂して行くものであることが分かります。更に云えば、今世に於ける徳の涵養度・人物の涵養度が、潜在意識として来世の原因を形作ることとなる。【仏教ではこれを業(カルマ)という】
ですから、今さえ良ければ先の結果などどうでもいい!結果さえよければ手段(プロセス)などどうでもいい!などと、無責任なことは云っていられないのです。手段と結果が次の原因を形作るのですから。徳の涵養度・人物の涵養度は誰の責任でもない、100%自己責任です!
最近は何でもかんでも速効性が求められる時代で、成果が上がりさえすればプロセスは問わない風潮が蔓延しているようですが、安易な成果主義は人間を限り無く薄っぺらにしてしまいます。長い目で見れば、会社をダメにしてしまいます。
某お菓子メーカーの賞味期限切れ原料使用・耐震強度偽装のホテル・関西テレビの納豆ダイエット捏造、どれも結果さえ良ければ手段などどうでもいい!とやって来たからでしょう?バレなければまだやっていたんでしょう?あの人達は!?あれは企業理論以前のトップの資質・人物の問題です。人体は20才前後で完成するけれど、人物の涵養は一生かけて成し遂げる大事業なんです。人物の速成培養などできない相談なのです!
|