〔原文〕
子曰、臧武仲、以防求為後於魯。雖曰不要君、吾不信也。
〔読み下し〕
子曰わく、臧武仲、防を以て後を魯に為すを求む。君を要せずと曰うと雖も、吾は信ぜざるなり。
〔通釈〕
孔子云う、「昔、臧武仲は領地防の後継者を臧氏の身内から立ててくれるよう魯公に要求したことがあった。一般には臧武仲が魯公に強要したのではないと云われているが、私はこの話しはどうも合点が行かぬ」と。
〔解説〕
本章は通釈しただけでは何のことやらさっぱり訳がわからないと思いますので、少し説明してみましょう。この事件は孔子がまだ三才頃の出来事でありまして、左伝襄公二十三年の条に次のような話しが載っております。
…李孫は臧孫(臧武仲)を愛したが、孟孫は彼を嫌っていた、孟孫が死に
葬式を 行う段になって、孟氏はこの際臧孫を懲らしめてやりたいと思い、
「臧孫が謀叛を起こそうとしている為、葬式が出来ない」と一族の李孫に
讒言(ざんげん)した。
李孫は取り合わなかったが、これを聞いた臧孫は警戒した。その年の冬、
孟氏は遺体の埋葬を行うのに墓道を切り開こうとして、道譜請の人夫を臧孫
から借りた。臧孫はこれに応じたが孟氏の動きを警戒して、武装兵を従えて
工事を監視した。孟氏はこのことを李孫に告げので、一族に対する非礼に
立腹した李孫は兵を発して臧孫を攻めた為、臧孫は朱に逃げた。
その後臧氏のお家断絶を恐れた臧孫は再び領地の防に帰り、自分の後継者に
兄の臧為を立てて、魯公に承認してもらうよう請願した。魯公は之を認め、
臧為が正式な領主となった後、臧孫は斉に亡命した…。
これだけでは、臧武仲は孟氏の罠に嵌はめられたが、臧氏をお家断絶の危機から救った真っ当な人物にしか見えません。問題はどうも魯公に請願した時の臧武仲の態度にあったようですが、はっきりしない。魯国の歴史書「春秋」は、孔子が編集し直したものとされておりますが、自分が編集した「春秋」には何故この時のことを書かなかったのでしょうか?おそらくこんなことだったのではないかと思います。
…春秋の編纂も漸く軌道に乗り、襄公二十三年臧武仲の事件にさしかかった。
この当時の資料をあれこれ調べて行くうちに、世間で云われている話の裏には
意外な事実があることが分かった。
「臧孫は臧為を立てて表向き鄭重に請願したように装っているが、その実請願
が入れられない場合には、防を楯にいつでも反旗を翻すぞ!と脅しの姿勢を
とっている。これは請願ではなく恫喝だ!」と知って、周りに居た弟子に
本章の言葉を漏らした。
しかし確たる証拠がある訳でもない。衛霊公第十五414章に、「吾は猶史の
闕文に及ぶなり(記録官は疑わしいことは書かず、敢えて空けておく)」、と
ある如く、「春秋」には敢えて記載しなかった…。
こんな所ではないかと思います。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「魯国の実力者であった臧武仲という人は、自分の城を兄の臧為に譲りたいと思い、殿様に許可を願い出てすんなり認めてもらったそうだが、何だかへんだなあ?本来ならお城を一旦国にお返しし、その後殿様から新たに任命を受けるのがルールなんだが。もしかすると殿様に、認めないと戦争するぞ!と脅しをかけたのかも知れないな」と。
〔親御さんへ〕
魯の国はここから登場する臧武仲の祖父・臧文仲(110章前出)が宰相を務めた頃から、国の主導権が君主から大夫(孟孫・叔孫・李孫)に移り、更に孫の臧武仲の頃から大夫の家臣の実力者に移ることとなる。李氏第十六432章で孔子は、国の主導権が天子(国王)から→諸侯(君主)へ、諸侯から→大夫(家老・大臣)へ、大夫から→陪臣(役人・官僚)へと移行することにより国家混乱の度合いが深まる!と述べておりますが、臧武仲の時代が丁度大夫から陪臣へと主導権が移りかけた時でした。孔子が私塾を開くのは、臧武仲事件から30年位経った頃で、陪臣の陽貨(陽虎)がデカイ面をしていた時代でありました。陽貨は孔子の宿敵でした。
|