憲問第十四 350

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〔原文〕
子曰、愛之能勿勞乎。忠焉能勿誨乎。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、(これ)(あい)して()(ろう)することなからんや。(ちゅう)にして()(おし)ることなからんや。

〔通釈〕
孔子云う、「真に我が子を愛するならば、どうして苦労させずにいられよう。真に友を思うならば、どうして忠告せずにいられよう」と。

〔解説〕
この文章は何とも解釈がしづらくて、代名詞の「之」を何ととるか?我が子ととれば、「労」を「労(ろう)する」と読んでも「労(ねぎら)う」と読んでも自然ですが、友ととると不自然になります。労するも労うも、上位者(年長者)が下位者(年少者)に対して使う場合は自然なのですが、対等な立場にある友人に使うのは不自然なんですね。

又、「愛」という言葉も、孔子の時代は男女の愛・親子の愛のような本能的な愛を表現する時に使われることが多く、友情を表す場合は忠や信を使うことが多い。このような判断から、前段は親の子に対する真の愛情を、後段は友に対する真の友情を述べたものとして通釈してみました。

こう解釈すると、「可愛いい子には旅をさせよ!」とか「若い時の苦労は買ってでもせよ!」と云った俗諺(ぞくげん)が身に滲みて来ますし、顔淵第十二311章「忠(まめ)やかに告げて善く之を道(みちび)き、不可なれば則ち止む」や312章「友を以て仁を輔く」という言葉が生きて来る。

将来ある我が子を愛するばかりで苦労させなかったら、それは舐め回すような禽獣の愛に過ぎません。否、禽獣と雖も、子供に狩を教え込み、強制的に独り立ちさせる。これはすべて母親の役目です。人間特有の溺愛や盲愛は、必ず子供をダメにしてしまいます。

又、友に嫌われるのを怖がってズバリと忠告しないのは、偽りの友情、仲良しごっこに過ぎません。最近こういう人がものすごく多いんです、仲良しごっこを友情と勘違いして、上辺だけでごまかしてしまうのが。本当の愛情は、時には命懸けで叱りつけることもある!真の友情は、時には本気で張り倒すこともある!その時は分からなくとも、いつか必ず分かる時が来る、親の恩と友の忠(まこと)を。

唐宋八家の一人であり優れた政治家でもあった蘇軾(そしょく)(東坡)は、『愛して苦労させることを知ればその愛は深く、忠(まこと)を尽くして誨(おし)えることを知ればその忠は大きい』と述べていますが、これは本当です。

子を褒めるだけで叱ることをしないのは、本当の愛情の出し惜しみ!友に愛想よくするだけで耳の痛いことも云ってやらんのは、本当の友情の出し惜しみ!出し惜しみとは吝嗇、つまりケチのこと。近頃愛も忠も出し惜しみするケチな奴が増えているんじゃないのかねえ・・・?子育ても交友も、ごっこじゃダメなんだよ!

〔子供論語 意訳〕

孔子
(こうし)
(さま)がおっしゃった、「お(とう)さんお(かあ)さんが時々(ときどき)(かみなり)(おと)すのは、(きみ)()づかなくともとても(わる)いことをやったからなんだ。(きび)しく(きみ)(しか)るのは、本当(ほんとう)(あい)しているからなんだよ、(きみ)将来(しょうらい)(かんが)えて。だから(きみ)たちは、(とも)だちが()づかないで(わる)いことをやった(とき)は、()()ぬふりをせず忠告(ちゅうこく)してあげなさい。これが本当(ほんとう)友情(ゆうじょう)というものだ」と。


〔親御さんへ〕
子供のいじめに関する討論番組があちこちで組まれておりますが、いつも違和感を覚えるのは、二言目には「子供の人権、子供の人権」と唱える某教育評論家の発言です。

子供の人権がきちんと守られていれば、すべてが解決するような意見を聞いていると、何を寝ぼけたことをいっているんだろうか!?私の親もその又親もその又前も、子供の人権を考えて子育てして来た人など一人もいない!立派かどうかは別にして、それでも皆ちゃんと子供を育てて来た、愛情一本で!!他に何が必要なんだ!?と、テレビに向かって怒鳴りたくなります。

親の子供に対する愛情には、優しい面と厳しい面の両方が必要で、どちらが欠けても子育てがうまく行かない位のことは誰でも知っていますが、実はこの他に、そのどちらにも属さない親の生き様そのもの・親の存在そのものが与える愛情、そうですねえ・・・、親の思いと言葉と行ない、つまり「身・口・意」の無意識自然の習慣から醸し出される無言の愛、この「習慣の愛」が子育てに一番影響を与えるんですね、本当の所は。

親の身・口・意の習慣は、善いものも悪いものもみな子供に伝染する、つまり、子供の習慣の基礎はすべて親から受け継ぐんです。面白いもので、親の善い習慣よりも悪い習慣を完璧に真似ます。

児童心理学者によると、繰返しいじめに遭う子は大半が自己評価が低く、自分はダメな子だ!劣った子だ!と思い込んで、自分に誇りが持てない為戦う意欲が起きないと云う。これ、親がそうしたんでしょう?自分の子を!

「否、自分は子供にお前はダメだ!クズだ!などと云った覚えはない!!」と反論するかも知れないが、口には出さなくても、心の中で「人間は親の快楽の産物だ。偶然に生まれて来て偶然に死んで行く。死ねばすべては一巻の終わり!」と思っているんじゃないの!?口に出さなくたって親の思いは子供に伝わるんですよ、子は親の心を読む名人なんですよ!知っていましたか?これでは神の子人間としての誇りなど持てる筈がないでしょう?セックスによる偶然の産物だ!などと唯物的なことを考えていたら。

或は、職場での不満を、家に帰ってから子供のいる前でグチっているんじゃないの?「誰も自分のことを分かってくれない!」などと女々しいことを云って。又は、自分のミスで仕事がうまく行かなかったのに、「アイツのせいで失敗してしまった!」などと、家族の前で責任を他人に押しつけているんじゃないのかね?会社じゃ誰も耳を貸す者がいないから。潔くないよこんなのは。

親の、人の生命や人間関係や社会に対する卑屈な態度を、子供は見ていないようでちゃんと見ているんです。そして、親の身・口・意の習慣は、無意識のうちに必ず伝染する。我が子には、優しく時には厳しく接しているつもりだけれど、どうもシャキッとしない!?と思うことがあれば、教師やカウンセラーに相談する前に、自分が無意識でやっている習慣を点検してみなさい!必ず思い当たる節がある筈です、悪しき思い・悪し き言葉・悪しき行いの習慣が。そこを意識して直しなさい!そうすれば、何も云わなくても子供はシャキッとします!親を見倣って。

いじめそのものが絶対悪であって、これを根絶しなければならぬかのような論調は間違っています。人類が誕生した時から今日迄、いじめがなくなったためしはないし、これからもなくなることはないでしょう。

要は、いじめに遭ったらどうやってこれを跳ね返して行くか?いじめを見つけたら見て見ぬふりをせずどうやってこれをやめさせるか?これを教えてやれるのは親しかありません。私達が子供の頃は、いじめられて泣いて家に帰ると、「やられたらやり返して来い!」と親に叱られたものです。

外では泣かされ家では叱られる。これではバカらしいから、子供ながらに反撃方法を考えて抵抗を試みる。面白いもので、反撃して来る相手には手を出さなくなるんですね、子供は。気の弱い子なら、柔道でも空手でも合気道でも習わせたらいいではないですか。「やられたらやり返せ!」と、親は子に教えなければならんのです。臆病者に育ててはなりません!

優しいことは大切です、しかし、優しいだけではダメなんです、強くなければ!親は強い子に育てなければならんのです、男の子も女の子も!!「やられても抵抗するな!反撃に出るな!黙ってやられてろ!!」などと云うのは、まるで憲法第九条シンドロームじゃないですか。「いじめられても抵抗しません!反撃しません!」と云っているようなものでしょう?第九条は。こんなバカな親が一体どこに居りますか!?もしかすると、子供のいじめ問題の背景には、臆病な大人の「憲法第九条シンドローム」の影響があるのかも知れません。

平成181117日付けで伊吹文科大臣が、全国の小中学校児童生徒1100万人とその保護者に宛てたお願い文書のコピーを配布しておきましたが、有史以来初めてではないでしょうか?こんなものは。

中国政府が人民に対して、オリンピックの時には公共の場で痰を吐かないように!と警告しておりますが、これより恥ずかしいことです、政府が国民にこんなことを云わなければならないなんて。結語の「話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる」は、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に依頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と同じこと、自助・セルフヘルプの精神を放棄しなさい!と云っているようなものではないですか。

自分の身は自分で守れ!と教えるのが教育であって、自分の身は人に守ってもらいなさい!などと教えるのは、隷属根性を植えつけるようなものでしょう!?いい加減に目を覚ましたらどうなのか!日本の大人達!!
 

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