子路第十三 323

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〔原文〕
子曰、善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺矣。誠哉是言也。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、善人(ぜんにん)(くに)(おさ)むること百年(ひゃくねん)(また)(もっ)(ざん)()ちて(さつ)()るべしと。(まこと)なるかな、()(げん)や。

〔通釈〕
孔子云う、「諺に『善人が相続いで国を治め百年の長きに及べば、穏やかな国風が醸成されて人々の残忍さも影をひそめ、人殺しをするような者はいなくなる』とあるが、誠にその通りだなあ!この言葉は」と。

〔解説〕
家には家風、学校には校風、地域社会には気風、会社には社風、国には国風というものがあります。人は誰でもこの四重五重の「風」のマントを着て他人と接している訳ですが、残念ながらこのマントは相手には見えても自分には見えない。鏡に映してもビデオで撮っても見えない。

風を分かり易く云うと…雰囲気・ムードではちょっと物足りないし…、気質・性分では舌足らずですし…、個性・感性では味わいがないし…、ああそうだ!それらすべてを渾然一体化した「味わい」或は「趣き」、これが「風」と考えて良いでしょう。

風は教育や訓練とは次元を異にしたもののようでありまして、世代を超えて熏習(くんじゅう)されて来た霊気(オーラ)と云ったらいいでしょうか?霊気(オーラ)は目に見えない、だから自分では気がつかない、しかし他人はなんとなく感じ取る。面白いですねえ、風というものは。

孔子は、国風が醸成されるには百年かかると述べておりますが、一代30年とすると、親→子→孫と受け継がれて、曾孫の代で漸く「味わい」・「趣き」といったオーラが醸し出される訳ですか…。途中でイカレた君主(トップ)が立ったらそれ迄!ということですね。難しいね、後継者選びは。企業の寿命30年と云われるけれども、そうすると、現代では大抵二代目でコケている訳ですね。昔は「売り家と唐様で書く三代目」と云われたものですが。大変だねえ、後継ぎも。

〔意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(むかし)(ことわざ)に『善良(ぜんりょう)殿様(とのさま)代々(だいだい)(つづ)いて百年(ひゃくねん)()(ころ)には、人々(ひとびと)(こころ)(なご)んで人殺(ひとごろ)しをするような(ひと)はいなくなる』とあるが、これは本当(ほんとう)だよ」と。

〔親御さんへ〕
解説で、「風」とは世代を超えて熏習(くんじゅう)された霊気(オーラ)のようなものだと申し上げましたが、熏習とは、物に香りが染み込むように、人に染み込んだ身・ロ・意の無自覚な習性とでも云ったら良いでしょうか。これは国レベル・地方レベル・家レベルでみな違う。

国レベルの「風」・民族の気風の違いを、「大和魂」・「大和撫子」と云ったり、「ヤンキー魂」・「ヤンキー娘」と云ったり。地方レベルの「風」・気風の違いを、「江戸っ子気質(かたぎ)」と云ったり、「越後人気質」と云ったり。同じ地方でも、地域によって又気風が違う。喩えば、村上の人と新潟の人と長岡の人の気風は違っている。同じ新潟市でも、場所によって又気質が違う、喩えば、上(かみ)と下(しも)では違うし、新潟島と沼垂では違っている。更には、同じ家族でも一人一人気質が違っている。似ている所はあっても、同じではない。これは一体どういうことなのでしょうか?

以前「山形塾」に五つ子ちゃんの一人、山下福太郎君(読売新聞本社勤務)が遊びに来まして、酒を飲みながら興味深いことを聞かせてくれたのですが、五人とも同じ環境・同じ条件・同じ家風の元で育てられた筈なのに、五人が五人みな気質も違うし頭の出来も違う、勿論個性はみな違う、と語っておりました。

従来、人の個性や気質は、生まれてからの環境や条件によって決まると考えられて来たけれども、本当は、今世獲得する新たな個性や気質は三割で、七割は前世迄に魂に薫習された個性や気質を保ち続けて生きているのではないか?つまり、肉体に宿る前の魂そのものが元々ユニークで個性的な存在なのではないか!?ということですね。もしそうでないとすれば、人間はみなクローンかロボトミーになってしまいます。

人間は一人一人が神の分霊(わけみたま)で、一人一人が神の種を宿し神の分身を演じている訳ですが、一人一人の個性がみな違うというのは、神は魂の数だけ多様な個性を愛しておられる、多様な「風」を愛()でておられるということでしょう。神に愛されていない人間など一人もいない、嫌われている人間など一人もいないのだから、あなたにしかできない個性的でユニークな人生を、あるがままに演じ切ってみましょうよ!社会秩序を乱さない範囲で。多少とっぽくたって、ダサくたっていいではないか!それも神の一面なんだから。
 

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