〔
原文
〕
|
子張問、士何如斯可謂之達矣。子曰、何哉爾所謂達者。子張對曰、
在邦必聞、在家必聞。子曰、是聞也、非達也。夫達也者、質直而好義、
察言而觀色、慮以下人。在邦必達、在家必達。夫聞也者、色取仁而行違、
居之不疑。在邦必聞、在家必聞。
|
〔 読み下し 〕 |
子張問う、士何如なれば斯れ之を達と謂うべき。子曰わく、何ぞや、爾の所謂達とは。子張対えて曰わく、邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰わく、是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦に在りても、必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行ないは違い、之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。
|
〔 通釈 〕 |
子張が、「政治に関わる者として、どのような人を達人というのでしょうか?」と問うた。孔子は、「何のことだね、お前の云う達の意味とは?」と聴き返した。
子張は、「政府の役人にも、地元の人にも評判が良いという意味での達でありますが」と答えた。孔子は、「何だそういうことか。それは達というのではなく聞(ぶん)(聞こえのいい人)というのだ。
本物の達人は、実直で道義を重んじ、人の言葉を聞いて胸中を察し、態度を見て人物を見抜く、しかも配慮が行き届いていて人に遜る。世間の評判など気にせず、国であろうが地元であろうが達道(人の拠るべき道)を貫く人、これを達人というのだ。
これに対して聞(ぶん)というものは、外見は仁者らしく装っているが云うこととやることがちぐはぐで、しかも本人はそれを気にかけることもなく、国でも地元でも世間受けだけを気にかける。世人はこれに晦まされて凄い人だと噂する。こういうのを聞(ぶん)・有名無実の人と云うのだ」と云った。
|
〔 解説 〕 |
これが2500年前の会話でしょうか?今の政治家のことを云っているんじゃないの? M.T のことじゃないのかね!? 孔子の云う「聞(ぶん)」とは!聞(ぶん)とは、今風に云えばパフォーマンスのことでしょう。
確かに選挙は一種人気投票みたいなところがありますから、世間受けも必要でしょうが、いつ迄経っても中身がなくてパフォーマンスだけだったら、「いい加減にしろ!」と云いたくなりますよ、地元だって。人として拠るべき道(達道)を持たない人間が、政治家などになってはいけないし、させてもいけません!
これは政治家だけではなく、経営者にも云えますね。理念もビジョンも戦略も持たない者が経営をやれば、欲望原理主義・損得原理主義に振り回されて、会社も従業員もダメにしてしまいます。理念とは、「拠って立つ所の理想とする念(おもい)」のことですから、これも達道なんです。達道を貫く人を「達人」と云うんですね。
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子張が、「どのような政治家を達人というのでしょうか?」と質問した。孔子様は、「君はどう思う?」と聴き返した。子張は、「テレビのワイドショーによく出てくる、有名な人がそうではないかと思いますが」と答えた。孔子様は、ああそれは達人ではなく、目立ちたがり屋というものだ。達人というのは、テレビの評判など気にせず、誠実で正義を貫き、的確にものごとを判断し、周囲に気配りができて出しゃばらない、こういう人を達人というんだよ。パフォーマンスの上手な政治家を達人とはいわないんだね」とおっしゃった。
|
〔 親御さんへ 〕 |
何だか分からないけれど、その人が居ると不思議にうまく行き、居るのか居ないのか分からないようにしているけれど、何んとなく場が和み、目立たないけれど存在感のある人。普段は気が付かなかったけれど、居なくなって初めて偉大さがわかる人って、いますよね。空気のような存在と云ったら良いのでしょうか?こういう人を達人と云うんですね。
普通は中々こうは行かなくて、用もないのに出しゃばってみたり、頼まれもしないのに取り仕切ってみたり、柄でもないのに天下国家を論じてみたり…、目立ちたがる人の中に、達人はいないってことでしょうか。子張はどうも目立ちたがり屋だったようですね。
|