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原文
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作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
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子路・曾皙・冉有・公西華、侍坐。子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也。
居則曰、不吾知也。如或知爾。則何以哉。
A
子路率爾對曰、千乘之國、攝乎大國之間、加之以師旅、因之以饑饉、
由也爲之、比及三年、可使有勇、且知方也。 夫子哂之。
B
求、爾何如。對曰、方六七十、如五六十、求也爲之、比及三年、
可使足民。如其禮樂、以俟君子。
C
赤、爾何如。對曰、非曰能之、願學焉。宗廟之事、如會同、端章甫、
願爲小相焉。
D
點、爾何如。鼓瑟希。鏗爾舎瑟而作、對曰、異乎三子者之撰。子曰、
何傷乎、亦各言其志也。曰、莫春者、春服既成、冠者五六人、
童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也。
E
三子者出、曾皙後。曾皙日、夫三子者之言何如。子曰、
亦各言其志也已矣。曰、夫子何哂由也。曰、爲國以禮。其言不譲。
是故哂之。唯求則非邦也與。安見方六七十。如五六十、而非邦也者。
唯赤則非邦也與。宗廟會同、非諸侯而何。赤也爲之小、孰能爲之大。
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〔 読み下し 〕 |
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子路・曽皙・冉有・公西華、侍坐す。子日わく、吾が一日爾より長ぜるを以て、吾を以てすること無かれ。居れば則ち日わく、吾を知らずと。如し爾を知る或らば、則ち何を以てせんや。
A
子路率爾として対えて日わく、千乘の国、大国の間に攝まれて、之に加うるに師旅を以てし、之に因るに饑饉を以てせんに、由や之を為めて三年に及ぶ比には、勇有りて且つ方を知らしむべきなり。夫子之を哂う。
B
求、爾は何如。対えて日わく、方六七十、如しくは五六十、求や之を為め、三年に及ぶ比には、民を足らしむべきなり。其の礼楽の如きは、以て君子を俟たん。
C
赤、爾は何如。対えて日わく、之を能くすと日うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、願わくは小相たらん。
D
点、爾は何如。瑟を鼓くこと希なり。鏗爾として瑟を舎きて作ち、対えて日わく、三子者の撰に異なり。子日わく、何ぞ傷まんや、亦各其志を言うなり。日わく、莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん。夫子喟然として歎じて日わく、吾は点に与せん。
E
三子者出ず。曽皙後れたり。曽皙日わく、夫の三子者の言は何如。子日わく、亦各其の志を言えるのみ。日く、夫子何ぞ由を哂うや。日わく、国を為むるには礼を以てす。其の言譲らず。是の故に之を哂う。唯れ求は則ち邦に非ずや。安んぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざる者を見ん。唯れ赤は則ち邦に非ずや、宗廟会同は諸侯に非ずして何ぞや。赤や之が小たらば、孰か能く大たらん。
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〔 通釈 〕 |
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子路・曽皙・冉有・公西華の四人が孔子の側に侍っていた時、孔子が
「私がお前達より多少年長だからと云って遠慮することはない。
お前達は日頃自分を知って登用してくれる人がいないと不平を漏らして
いるが、もしお前達を認めてくれる人がいて用いてみようとなったら、
一体どうしたいのか?めいめい志を語ってみないか?」と云った。
A
子路は待っていましたとばかりに立ち上がって、「兵車千乘を出す
程の国が、大国間にはさまれて戦争に巻き込まれたり、饑饉にあって
大混乱に陥った場合、私が政治を任されたならば、三年もする頃には
人民に勇気を持たせ、礼儀礼節を重んじる国家に仕立ててみせま
しょう」と答えた。これを聞いた孔子はニヤリと笑った。
B
「求やお前はどうだ?」と孔子は云った。冉有は、「六七十里四方、
いや五六十里四方程度の国で私が政治を任されたならば、三年も
経った頃には、人民の衣食を足らしめ、経済を豊かにしたいと
思います。礼楽については私の力の及ぶ所ではありませんので、
有徳の君子を俟ってお任せしたいと思います」と答えた。
C
「赤やお前はどうだ?」と孔子は云った。公西華は、「必ずしも
自信があると云う訳ではありませんが、願わくば礼楽を学んで、
主君の宗廟の祭祀や諸侯の国際会議などの場合には、礼装して
補佐役位は務められると思います」と答えた。
D
「点、お前はどうだ?」と孔子は云った。曽皙は三人の話しを聞き
ながらポツンポツンと琴を弾いていた手を止め、コトリと琴を置いて
立ち上がり、「私は三方の志とはおよそ趣を異にしておりますから」
と遠慮した。孔子は、「めいめい思う所を述べたのだから、何も
遠慮することはない。云ってごらん」と云った。
曽皙は、「暮春の頃には春服に着替えをして、元服したばかりの
若者五六人と、物心ついたばかりの子供六七人を連れて、沂の温泉に
ゆったりとつかり、雨乞い台で一涼みしたら、歌でも歌って帰って
来たいと思います」と答えた。これを聞いた孔子は、「私も点の
仲間に入れてもらいたいものだなあ」と溜息を漏らした。
E
三人が退出した後曽皙だけが残った。曽皙は、「あの三人の意見は
いかがでしたか?」と問うた。孔子は、「皆それぞれ自分の抱負を
述べたのだから、それはそれでいいではないか」と答えた。曽皙は、
「先生はどうして由君の話しの後でニヤリとされたのですか?」と
尋ねた。
孔子は、「国を治めるには礼譲が肝腎だ。由も自分でそう云って
おきながら、発言に少しも礼譲の心が感じられない。だからおかしく
なって笑ったまでだよ。
ついでながら、求の発言だが、六七十里四方・五六十里四方と云えば
立派な独立国家だ。求なら由に引けをとらない手腕があるから、
千乘の大国でも立派に治められようが、それにしても相変わらず
控え目過ぎるな。
赤の言についてだが、宗廟の祭祀や国際会議が諸侯の重大な
国事行為でなくて何だろう。赤は小相どころか立派に大相を
務められる男である。もし赤が小相として補佐役に甘んじると
云うなら、誰が一体大相を務められようか。赤も謙遜して
ああ云ったのだよ」と云った。
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〔 解説 〕 |
本章は論語の中で一番長い文章ですので六つの段落に分けましたが、それでもシンドイですね。曽皙とは曽子の父で、姓は曽 名は点 字は皙。孔子の何才年下かは分かっておりませんが、曽子が曽皙30才頃の子供だったとすると、孔子の15才位年下で、閔子騫と同世代の人物ということになります。曽皙は孔子門下では一風変わった弟子で、俗事に超脱した老荘的心性の持ち主だったようです。
孟子は曽皙を評して「狂者(きょうしゃ)」と云っておりますが、狂者とはどんな人をいうのかと云うと(勿論気違いのことではない)、子路第十三で孔子は、「中行を得て之に与(くみ)せずんば、かならずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」と述べ、孟子は孔子のこの言を次のように解説しております。
『日く、琴張(きんちょう)・曽皙・牧皮(ぼくひ)の如き者は、孔子の所謂狂なり。狂とはその志膠々(こうこう)然たり。古の人古の人と日うも、その行ないを夷行(いこう)すれば、焉(これ)を掩(おお)はざる者なり。狂者亦得べからず。不潔を屑(いさぎよし)とせざるの士を得て、之に与(くみ)せんと欲す。是れ狷なり。是れ亦其の次なり』、つまり狂者とは、スケールが大きくて、昔の諸聖賢のことをよく引き合いに出すが、必ずしも言行の一致しない夢想的な所のある人、となるでしょうか。
曽皙は飄々として、細かいことにこだわらない、ちょっと人を食った所のある人物だったのかも知れません。日本人で云えば、良寛さんのようなタイプでしょうか?こういう人も孔子の周りにいたんですね。私塾の元祖「孔子学園」は、エリート養成のカレッジと云うより、アカデミーのようなものだったのではないでしょうか?尚、孟子は三桓の一人孟孫氏の後裔であると云われておりまして、子思の門から出た大人物です。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
@子路・曽皙・冉有・公西華の四人が、孔子様を囲んで坐っていた時、孔子様が
「君達はいつも活躍の場がないとグチをこぼしているが、もし活躍の場が与えら
れたら何をしたいのか?遠慮はいらないからそれぞれ抱負を述べてみなさい」とおっしゃった。
A子路は待っていましたとばかりに立ち上がって、「ある国が戦争に巻き込まれ、その
上異常気象で作物が育たず、国民が食糧難に陥ったとします。そこで私が総理大臣に就任したとすれば、国民に夢と希望を与える政治を行なって、三年以内に混乱から国民を救ってみせます!」 と答えた。孔子様は意味ありげにニヤリと笑った。
B「求(冉有)や、君はどうだね?」と孔子様はたずねた。冉有は、「30キロ四方、いや20キロ四方の小さな国の総理大臣を任されたら、三年以内に経済を豊かにしたいと思います。国民の教育については自信がありませんので、専門家に任せたいと思います」と答えた。
C「赤(公西華)や、君はどうだね?」と孔子様はたずねた。公西華は、できればもう少し勉強をして、国の行事や国際会議でのアシスタントを
やりたいと思います」と答えた。
D「点(曽皙)や、君はどうだね?」と孔子様はたずねた。曽皙は三人の話を聞きながらポツンポツンと琴を弾いていた手を止めて立ち上がり、「私は政治家には向いておりませんので・・・」と口ごもった。孔子様は、「気にすることはない。遠慮しないでいってごらん」とおっしゃった。曽皙は、「桃の花の咲くころになったら、少年達を連れて遠足に行き、遊び疲れたら温泉にでもつかり、広場で一涼みしたら、皆で歌を歌いながら帰って来たいと思います」と答えた。これを聞いた孔子様はため息をついて、「私も君の仲間に入れてほしいな」とおっしゃった。
E三人が退席した後曽皙だけが残った。曽皙は、「あの三人の意見はどうでしたか?」と質問した。孔子様は、「皆それぞれ自分の抱負を述べたのだから、それはそれでいいではないか」と答えた。曽皙は、「先生はどうして由君(子路)の発言の後で笑われたのですか?」とたずねた。孔子様は「相変わらず強気一辺倒で、勇ましい男だな?と思って笑ったんだよ。ついでにいうと、求は30キロ四方どころか、300キロ四方の大国でも立派に治められる男だが、これも相変わらず控え目過ぎるな。赤はアシスタントどころか、プロデューサーを務められる男だ。赤がアシスタントならば、誰もプロデューサーをやる者がいないよ」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
論語に曽子の父曽皙が登場するのはこの一場面だけですが、曽子の弟子筋で論語の編集に加わった人達は、何か師匠の父上・曽皙の人物像を浮き彫りにするようなネタはないものかと、必死に探し回った挙げ句、やっとこの時の会話記録を探し出したのではないでしょうか?文章が長い割には、大して中身がなく、曽皙一人だけが目立つ記述になっている。他の三人は、刺身のツマみたいなものです。孔子の弟子の中には、曽皙のような良寛様タイプの人物もいた、という所くらいでしょうかね、面白いのは。
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