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原文
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作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
子張問善人之道。子曰、不踐迹、亦不入於室。
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〔 読み下し 〕 |
子張、善人の道を問う。子日わく、迹を踐まず、亦室に入らず。
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〔 通釈 〕 |
子張が、「善人とはどういう人を云うのでしょうか?」と質問した。孔子は「学ぶことは一応学ぶのだが、学びっ放しで実践しようとしない。考えることは一応考えるのだが、もう一歩核心に踏み込もうとしない。まあ善悪の区別はつくのだが、決意と信念に欠けた凡庸な人が善人と云った所かな」と答えた。
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〔 解説 〕 |
子張がここで問うた善人とは、孔子の答え方からすると、善人悪人の善人の意ではないようです。古代中国の人物評価には、聖人⇒君子(仁者・賢者)⇒善人(凡庸な良識派)⇒衆人(一山いくらのその他大勢)⇒小人(悪党)の五通りがあったようで、明末の儒者呂新吾(りょしんご)は論語のこの章をヒントに、善人を次のように定義している。
『善人・・・恂雅温樸(じゅんがおんぼく)にして、僅かに自ら守るに足り、識見は正しと雖も自ら決する能わず、躬行は力(つと)むと雖も保つ能わず』つまり、「善人とは、穏やかな人柄で何とか自分一人の身を守ることはできる。正しい見識は持っているのだが決断力に欠け、一応決断はするのだが、強い信念に欠けて一貫性がない人」と。十界互具で云う所の人間・天上、キネシオロジーポイントで云うとログ200〜310の意識レベルが、ここで云う善人ということになるでしょうか。
本篇先進第十一の章立ては非常に良くできておりまして、弟子それぞれの性格や才能を、こういう所はこうで、ああいう所はああで・・・というように、場面に応じて孔子に語らせて、特徴を浮き彫りにしようとしています。
本章も、「師や過ぎたり(出しゃばり)」と云われたり、「師や辟(見栄坊)」と云われたりしてちょっと自信喪失になりかけた子張の心理状態を忖度して、「もし自分が君子でないとすれば、その下の善人とは一体どんなものなのか?」と問わせる構図になっている。
論語は、孔子の孫弟子達が中心になって最初の編集が成されたのではないか?と前に述べましたが、本篇を編集する時はまだ孔子晩年の直弟子の何人かが生きておって、鯉が死んだ時はこうだった、顔回が死んだ時はこうだった、あいつにはこんなことがあった、そういえば先生にもこんなことがあった・・・とエピソードを語らせて、聞き書きのような形でまとめたものではないでしょうか?他の篇に比べて、描写が生々しいですからね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子張が、「どういう人を善良な凡人というのでしょうか?」と質問した。孔子様は、「やって良いこととやって悪いことはちゃんと知っているのだが、みんながやっているんだから、自分も少しくらいはいいだろう?と、悪いと知りながらやってしまう人。困っている人がいたら助けてあげなければならんのに、誰もやらないから自分もやらなくていいだろう?と見て見ぬふりをする人。人にこれといった迷惑をかける訳ではないが、進んで良いことをやる訳でもない自分本位の人、これが善良な凡人の特徴かな?」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
「人にこれと云った迷惑をかける訳ではないが、進んで良いことをやる訳でもない自分本位の人」これが善良な凡人の特徴ですか・・・。大部分の人がこれじゃないのかねえ!?
民主主義ってのは、そもそもこれが前提で成り立っているんでしょう?大多数の人が善良であることを信じて、多数決で決めよう!と。ということは、選挙もやらず、共産党一党独裁でやっている中国や北朝鮮は、端(はな)から国民など信用していないってことですね。
人民はバカで性悪(しょうわる)だから、党が強制力を以て指導・統治しなければならない!バカで性悪の人民に選挙権を与えたり、言論の自由を与えたりするなど以ての外である!!と。中国や北朝鮮の国民は、これで満足しているのだろうか?バカで性悪とされて。
善良な凡人は、本当は国の宝なんですよ!堯日第二十で周の武王も云っているではないですか、「周に大いなる賜物あり。善人是れ富めり」と。特にこれと云った才能などなくても、善良勤勉で凡庸な大多数の国民が豊かで幸せに暮せる社会、これを実現するのが政治の要道でしょう。但し、上に立つ人が凡庸では困りますが。
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