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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
子曰、孝哉閔子騫。人不間於其父母昆弟之言。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、孝なるかな閔子騫。人其の父母昆弟の言に間せず。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「親孝行者だなあ、閔子騫は。父母兄弟が閔子騫の孝行ぶりを自慢しても、世間の誰一人として口をさし挟む者はいない」と。
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〔 解説 〕 |
孔子が弟子を呼ぶ時は必ず名前で呼んでいましたから、本来ならば「孝なるかな損や」と云う筈ですが、どうしてこの時に限ってフルネームで呼んだのでしょうか?これは全くの推測ですが、当時閔子騫の孝行ぶりは街中に知れ渡っていて、巷で孝行者の話しになると決まって、「孝なるかな閔子騫」という言葉が評語として使われていたのではないでしょうか?だから孔子も、この時に限って敢えて評語を使ったのではないか。
閔子騫の孝行ぶりを示すものとして、前漢の劉向(りゅうきょう)の編になる「説苑(ぜいえん)」という書物に次のようなエピソードが載っています。「閔子騫の母が二人の子供を残して亡くなった。父は後妻を迎えたが、継母は子騫に辛く当った。寒い冬の日、子騫は父の御者をつとめたが、手がかじかんで手綱を落としてしまった。父が子騫の手をとってみると、寒さの為に凍えていた。衣服はと見れば、一枚しか着けていなかった。
家に帰って継母の産んだ二人の子供を呼んでみると、二人とも厚着して温かであった。激怒した父は継母を呼び離縁しようとしたが子騫が止めて、『母がおられれば自分一人だけが寒いだけですが、母が居なくなったら子供四人が凍えてしまいます』と云った。父は怒り
をこらえて継母を許した。後に『孝なるかな閔子騫、一言して母が還り、再言して四子温かなり』と云われた」とある。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「街中孝行者の閔子騫の噂でもちきりのようだが、確かに噂通りの孝行者で、彼だけでなく、彼の家族の悪口を云う者も一人もいない」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
閔子騫は孔門十哲の徳行の一人に挙げられている通り、人格高潔で立派な人だったようです。本人のみならず家族全員、特に意地悪な継母まで悪く云われなかったというのですから、これ程立派な孝行はないでしょう。閔子騫は孔子より15才年下で、有子(有若)や漆雕開(しつちょうかい)とほぼ同世代の旧くからの門人でした。
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