先進第十一 267

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原文         作成日 2005年(平成17年)10月から12月
子曰、孝哉閔子騫。人不於其父母昆弟之言。
 
〔 読み下し 〕
子曰(しのたま)わく、(こう)なるかな(びん)()(けん)(ひと)()父母(ふぼ)(こん)(てい)(げん)(かん)せず。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「親孝行者だなあ、閔子騫は。父母兄弟が閔子騫の孝行ぶりを自慢しても、世間の誰一人として口をさし挟む者はいない」と。
 

〔 解説 〕

孔子が弟子を呼ぶ時は必ず名前で呼んでいましたから、本来ならば「孝なるかな損や」と云う筈ですが、どうしてこの時に限ってフルネームで呼んだのでしょうか?これは全くの推測ですが、当時閔子騫の孝行ぶりは街中に知れ渡っていて、巷で孝行者の話しになると決まって、「孝なるかな閔子騫」という言葉が評語として使われていたのではないでしょうか?だから孔子も、この時に限って敢えて評語を使ったのではないか。

閔子騫の孝行ぶりを示すものとして、前漢の劉向(りゅうきょう)の編になる「説苑(ぜいえん)」という書物に次のようなエピソードが載っています。「閔子騫の母が二人の子供を残して亡く
なった。父は後妻を迎えたが、継母は子騫に辛く当った。寒い冬の日、子騫は父の御者をつとめたが、手がかじかんで手綱を落としてしまった。父が子騫の手をとってみると、寒さの為に凍えていた。衣服はと見れば、一枚しか着けていなかった。

家に帰って継母の産んだ二人の子供を呼んでみると、二人とも厚着して温かであった。激怒した父は継母を呼び離縁しようとしたが子騫が止めて、『母がおられれば自分一人だけが寒いだけですが、母が居なくなったら子供四人が凍えてしまいます』と云った。父は怒り をこらえて継母を許した。後に『孝なるかな閔子騫、一言して母が還り、再言して四子温かなり』と云われた」とある。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「街中(まちじゅう)(こう)行者(こうもの)閔子騫(びんしけん)(うわさ)でもちきりのようだが、(たし)かに噂通(うわさどお)りの(こう)行者(こうもの)で、(かれ)だけでなく、(かれ)家族(かぞく)悪口(わるくち)()(もの)一人(ひとり)もいない」と。
  
〔 親御さんへ 〕
閔子騫は孔門十哲の徳行の一人に挙げられている通り、人格高潔で立派な人だったようです。本人のみならず家族全員、特に意地悪な継母まで悪く云われなかったというのですから、これ程立派な孝行はないでしょう。閔子騫は孔子より15才年下で、有子(有若)や漆雕開(しつちょうかい)とほぼ同世代の旧くからの門人でした。
 
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