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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
子曰、回也、非助我者也。於吾言無所不説。
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〔 読み下し 〕 |
子曰わく、回や、我を助くる者に非ざるなり。吾が言に於いて説ばざる所無し。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「顔回と話しをしても、少しも刺激になることがない。何しろ私の話しを喜んで聴いているだけで、一つも反論して来ないのだから」と。
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〔 解説 〕 |
為政第二25章に「吾回と言う、終日違わざること愚なるが如し」とありまして、顔回は孔子の云うことをハイハイと聴いているだけで、反論する事がなかったようです。
「論語開眼」で、正一反一合なる弁証法は中庸の一つの応用である、と申し上げました。テーゼ(正・定立)があり、アンチテーゼ(反・反定立)があり、これらをアウフヘーベン(止揚)してジンテーゼ(合・総合)という第三の道を発見して行くことによって、議論の発展が見られる訳ですが、顔回はアンチテーゼを立てることがなかったのでしょう。
漢人は日本人と違って、元来議論を好む民族ですから、孔子としてはちょっと物足りなさを感じていたのかも知れません。顔回は質問もあまりしなかったようで、論語の中で孔子に質問している所は、顔淵第十二の「顔淵仁を問う」と、衛霊公第十五の「顔淵邦を為(おさ)めんことを問う」の二箇所位しかありません。いつもニコニコとして、口数の少ない穏やかな人だったようですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「顔回は私がハッとするような鋭い質問をしたことがない。いつも私の話しを嬉しそうに聴いているばかりで、何か質問はないか?と聞いても、ありません!と云う。もっと自己主張しても良いんだよ!と云っても、ハイと答えるだけで、又いつも通りニコニコしている。この子は本当におもしろい子だね」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
質問の仕方で大体その人のレベルが分かるものですが、全く質問して来ないというのも、何を考えているのか掴み所がなくて不気味なものです。質問がない場合、いく通りかの理由があるようでありまして、
その(1)は、見るもの聞くものみな初めてのことばかりで、びっくりして
質問すら浮かばないケース。
その(2)は、聞いたら聞きっ放しで、何も考えていないケース。
その(3)は、こんなこと聞いたら恥ずかしいかな?と、周りに遠慮して
しまうケース。
その(4)は、質問して話者に恥をかかせたくない為に、敢えて控えるケース。
その(5)は、砂地に水が滲み込むように、スーッと腑に落ちて質問の余地
すらないケース。
他にもあるかも知れませんが、顔回にとって孔子の話しは、その(5)砂地に水が滲み込むように、ス―ッと顔回の心に吸収されて行ったのではないでしょうか?まさかその(2)ではないでしょう、誰かさんとは違いますよ!?
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