先進第十一 266

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原文         作成日 2005年(平成17年)10月から12月
子曰、也、非助我者也。於吾言無所不説。
 
〔 読み下し 〕
子曰(しのたま)わく、(かい)や、(われ)(たす)くる(もの)(あら)ざるなり。()(げん)()いて(よろこ)ばざる(ところ)()し。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「顔回と話しをしても、少しも刺激になることがない。何しろ私の話しを喜んで聴いているだけで、一つも反論して来ないのだから」と。
 
〔 解説 〕

為政第二25章に「吾回と言う、終日違わざること愚なるが如し」とありまして、顔回は孔子の云うことをハイハイと聴いているだけで、反論する事がなかったようです。

「論語開眼」で、正一反一合なる弁証法は中庸の一つの応用である、と申し上げました。テーゼ(正・定立)があり、アンチテーゼ(反・反定立)があり、これらをアウフヘーベン(止揚)してジンテーゼ(合・総合)という第三の道を発見して行くことによって、議論の発展が見られる訳ですが、顔回はアンチテーゼを立てることがなかったのでしょう。

漢人は日本人と違って、元来議論を好む民族ですから、孔子としてはちょっと物足りなさを
感じていたのかも知れません。顔回は質問もあまりしなかったようで、論語の中で孔子に質問している所は、顔淵第十二の「顔淵仁を問う」と、衛霊公第十五の「顔淵邦を為(おさ)めんことを問う」の二箇所位しかありません。いつもニコニコとして、口数の少ない穏やかな人だったようですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(がん)(かい)(わたし)がハッとするような(するど)質問(しつもん)をしたことがない。いつも(わたし)(はなし)しを(うれ)しそうに()いているばかりで、(なに)質問(しつもん)ないか?と()いても、ありません!と()う。もっと自己(じこ)主張(しゅちょう)しても()いんだよ!と()っても、ハイと(こた)えるだけで、(また)いつも(どお)りニコニコしている。この()本当(ほんとう)におもしろい()だね」と。
  
〔 親御さんへ 〕

質問の仕方で大体その人のレベルが分かるものですが、全く質問して来ないというのも、何を考えているのか掴み所がなくて不気味なものです。質問がない場合、いく通りかの理由があるようでありまして、

 その(1)は、見るもの聞くものみな初めてのことばかりで、びっくりして
                  質問すら浮かばないケース。

 その(2)は、聞いたら聞きっ放しで、何も考えていないケース。

 その(3)は、こんなこと聞いたら恥ずかしいかな?と、周りに遠慮して
                  しまうケース。

 その(4)は、質問して話者に恥をかかせたくない為に、敢えて控えるケース。

 その(5)は、砂地に水が滲み込むように、スーッと腑に落ちて質問の余地
                  すらないケース。

他にもあるかも知れませんが、顔回にとって孔子の話しは、その(5)砂地に水が滲み込むように、ス―ッと顔回の心に吸収されて行ったのではないでしょうか?まさかその(2)ではないで
しょう、誰かさんとは違いますよ!?
 

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