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原文
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作成日 2005年(平成17年)7月から9月 |
康子饋藥。拜而受之。曰、丘未達、不敢嘗。
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〔 読み下し 〕 |
康子、薬を饋る。拝して之を受く。曰わく、丘未だ達せず、敢て嘗めず。
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〔 通釈 〕 |
魯の筆頭家老の季康子(季孫氏)が、孔子の病気見舞に薬を贈った。孔子は床から起きて拝礼してこれを受け取り、使者に向かって「身に余るお心遣い、ありがたく頂戴致します。ただ、頂戴した薬の効能が分かりませんので、今すぐ飲むことは敢えて差し控えさせて頂きます。なにとぞご家老様によろしくお伝え下さい」と云った。
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〔 解説 〕 |
この当時、病気見舞に薬を贈ることは、どんなに貴重なものであっても非礼(非常識)とされていたようですが、だからと云って、せっかく頂いたものをその場で突き返すのも又大人げない。そこで孔子は、季康子のせっかくの好意を傷つけぬよう、「効能がはっきりしないので、飲むことを控えさせてもらう」と、やんわりと自分の意志を伝えたのでしょう。
こう云っておかないと、後日「効き目はどうか?効かなければ処方の違うものを贈ろうか?」と、しつこく親切の押し売りをして来るし、飲みもしないのに「お陰様で良くなりました」などと云おうものなら、同じものを山程贈って来る。
中国人と付き合ったことのある人なら経験があるでしょう?イエスかノーかはっきり云わないと、承諾したものとみなされるといった経験が。ここが日本人と中国人の違いと云うか、単一民族社会と多民族混合社会の違いでしょうかね?日本では、黙っていたり「考えておきます」などと曖昧に云えば、大概はノーと相場が決まっておりますからね。
ここが分かると、中国人である孔子が何故「丘未だ達せず、敢て嘗めず」と、わざわざ一言付け加えたのかが理解できるのではないでしょうか。云わなくてもいいようなことを云った訳ではないんですね。
これは何も中国人だけに限ったことではありません。日本人以外は、黙っていると認めたものと見做される!と肝に銘じておいたら良いでしょう。「根も葉もないことなど放っておけば良い。そのうち皆が分かってくれる」などと思っていたら大間違い。ウソが独り歩きして既成の事実とされてしまう。その都度きっちり反論しないと、認めたものとされてしまうんです。南京大虐殺然り、百人斬り然り、従軍慰安婦然り・・・。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様が病気になったので、これを聞いた魯国の家老の季康子という人が心配して、使いの者に高価な漢方薬をお見舞に届けさせた。孔子様は床から起きておじぎしてこれを受け取り、「ご心配いただきありがとうございます。今は医者から処方してもらった薬を飲んでおりまして、様子をみている所です。あれもこれも一緒に飲むと、何が効いたのか分からなくなりますので、いただいた漢方薬の服用はさし控えたいと思います。ご家老様にくれぐれもよろしくお伝えください」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
漢方薬で思い出したのですが、私の古くからの知り合いに、R園という千葉で有名なとんかつ専門店をやっている社長さんがおられます。この方は西洋薬が嫌いで、長年漢方薬を愛用されているのですが、先日お邪魔した所どうもいつもの覇気がない。
「どうかしましたか?」と問いますと、「この漢方薬を飲んでからどうも身体がだるいんです」との返事。「キネシオロジーテストをやってみましょう」となって、その薬をみぞおちの所に当ててもらって測ってみると、「効果がない」どころか「猛毒」と出る。
生薬なのにおかしいな?と思い、今度はそれを私のみぞおちに当てて測ってみると、「大いに効く」と出る。もしかして、同じ生薬でも人によって薬にもなれば毒にもなるのではないかと思い、家にある漢方薬を総て出してもらって測ってみると、この方には効くが私には毒のものがあったり、その逆もあったり、二人とも効くものがあったり、二人とも毒のものがあったりと、様々な反応が出る。
生薬と雖も、万人一律平等に効くというものではないんですね、人によって猛毒のものもあるんです。本章で孔子が、「せっかく頂いたのだが、飲むことは差し控える」と云った理由が分かるような気がします。
薬を買う時は、キネシオロジーテストをやって、自分に効果があるかないかを確かめてから買うべきでしょう。一人〇リングテストができなければ、店員の腕を借りて測ってみたら良い。最近は、〇リングテストをやってくれる薬局も結構あるようです。
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