泰伯第八 205

上へ


原文           作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月
子曰、巍巍乎。舜禹之有天下也。而不與焉。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、巍巍(ぎぎ)()たり。(しゅん)()天下(てんか)(たも)てるや。(しこう)して(あずか)らず。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「何と見事なことか!舜・禹が天下を治めたやり方は。何が見事かと云えば、自ら直接政治に関与することなく、有能な部下を信頼して任せきった所にある」と。
 

〔 解説 〕

本章から208章迄の四章は、古代の聖天子堯・舜・禹の話が続きます。明末の儒者呂新吾は、自著「呻吟語」の中で、人物を三つの等級に分けて次のように論じております。

 
一 深沈厚重なるは第一等の資質なり
   どっしりと落ち着いて物事に動じない人物、これが第一等である。

 二 磊落豪雄なるは第二等の資質なり
   太っ腹でこせこせしない人物、これが第二等である。
 
 三 聡明才弁なるは第三等の資質なり
   頭が切れて弁が立つ人物、これは第三等に過ぎない。

舜も禹も「巍巍乎たり、而して与らず」とありますから、磊落豪雄の者・聡明才弁の者を見事に生かし切った、深沈厚重たる第一等の人物であったようです。近頃は、頭が切れて弁が立つ人物こそが第一等と勘違いされているようですが、これはテクノクラート(技術官僚)型と云って、兵に将たることは出来ても、将に将或は将に王たるには不向きなんですね。将に将たるには磊落豪雄、将に王たるには深沈厚重なる資質が要るんです。

季氏第十六で孔子は「陪臣(ばいしん)国命を執(と)れば、三世(さんせい)にして失わざること希なり。(官僚が国の政治を取り仕切るようになると、三代続くことは希である)」と述べており
ますが、テクノクラート(聡明才弁)が実権を握ると、大低国がひっくり返っている。そこで群雄(磊落豪雄)が割拠して、益々混乱に拍車がかかる。最後に英雄(深沈厚重)が立って、ピシッと国を平定する。

適材を適所に登用して、用いて任せ、任せて生かす。用いられれば発奮し、任されれば使命感に燃え、生かされれば生き甲斐を感ずる。トップが確乎たる理念(拠って立つ所の理想とする思い)と、明確なビジョン(未来像)を示してさえいれば、直接与らずとも部下は意気に感じて情熱を燃やすものなんですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「古代(こだい)王様(おうさま)(しゅん)()時代(じだい)は、天下(てんか)泰平(たいへい)でいい()(なか)だったようだ。だからといって、(おう)(みずか)らああしろ!こうしろ!と役人(やくにん)指図(さしず)した(わけ)ではない。すべて(まか)せきりだった。なのにどうして()(くに)(おさ)まっていたのか、()かるかな?二人(ふたり)とも先代(せんだい)王様堯(おうさまぎょう)遺言(ゆいごん)をしっかりと(まも)(とお)したからなんだね。(ぎょう)遺言(ゆいごん)とは、『(かみ)のお告げにより王位(おうい)(ゆず)る。よって、(かみ)のみ(こころ)のままに政治(せいじ)(おこ)ないなさい!国民(こくみん)(くる)しめ(こま)らせるようなことがあれば、永久(えいきゅう)幸運(こううん)から()(はな)されるであろう!!』というものだ。(しゅん)()もこの()()けを(かた)(まも)って、国民(こくみん)安心(あんしん)して()らせ・(ゆた)かに()み・お(たが)いに(たか)()い・発展(はってん)繁栄(はんえい)することを理想(りそう)として(くに)(みちび)いた。役人(やくにん)国民(こくみん)王様(おうさま)(ねが)いをよく()っていたから、いちいち指図(さしず)されなくても理想(りそう)実現(じつげん)()かって行動(こうどう)した。リーダーが(たか)理想(りそう)()って人々(ひとびと)(みちび)くというのは、とても大切(たいせつ)なことなんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
堯日(ぎょうえつ)第二十の冒頭に、堯が舜に帝位を譲るに際して「ああ爾(なんじ)舜、天の暦数(れきすう・神のお告げ)爾の躬(み)に在り。允(まこと)に其の中(ちゅう・神の道、中道)を執(と)れ。四海(しかい・天下万民)困窮せば、天禄(てんろく・幸運)永く終えん」と命じ、舜が禹に帝位を譲るに際しても同じ事を命じたとあります。

古代中国では、宇宙の主宰神(造物主)を天帝と云って、天帝の意(天意)を体した者が天下万民を治めるとされておりましたから、新帝が即位するとまず天帝に向かって宣誓することになっていたようです。

夏の暴君桀王(けつおう)を討って即位した殷の湯王(とうおう)は天帝に向かって「朕(わ)が躬(み)罪(つみ)有らば、萬邦(ばんぽう)(天下万民)を以てすることなかれ。萬邦罪あらば、罪朕が躬に在らん!」と誓い、殷の暴君紂王(ちゅうおう)を討って即位した周の武王は「百姓(人民)過ち有らば、・われ一人に在らん!」と誓っている。つまり、民族すべての責任を一身で負う!と誓っている訳ですが、これはものすごいことです。

古代の人は、王位或は帝位に就くに当って、これ程の覚悟で臨んだのですね。「自分は民族の親たる者である。よって、子たる人民の非は、すべて親たる自分の責任である!」と。

現代は国民主権ですから、国民一人一人が国の責任を負う立場にある。選挙権を持てば、全員が国の親たる責任を負う訳です。考えようによっては、民主主義・国民主権とは、国民一人一人が国の責任を負わなければならない、猛烈に厳しい制度なんですね。国家の方針や運営に対して、無関心・無定見は許されないということでしょう。

だから、「俺には関係ない!」・「私わかんない?」などと、無責任なことは云っていられないんですよ。選挙で選ばれた訳でもないテクノクラートに、やりたい放題やられてしまいますからね、社会保険庁や大阪市役所のように。
 
泰伯第八 204 泰伯第八 205 泰伯第八 206
新論語トップへ