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原文
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作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月 |
子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已。
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〔 読み下し 〕 |
子日わく、如し周公の才の美有りとも、驕且つ吝ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。
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〔 通釈 〕 |
孔子云う、「いかに周公のような豊かな才能があろうとも、驕慢で且つ吝嗇であったなら、最早そこ迄の人物で、見るに値しない」と。
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〔 解説 〕 |
驕(きょう)とは「自惚れ屋」のこと、吝(りん)とは「けちん坊」のこと。孔子は、自惚れ屋でけちん坊であったら、他にどんなに能力・才能・美点があってもダメ!と云い切っておりますが、これは確かにその通りです。
仕事柄いろんな人にお会いしますが、自惚れ屋でも気前が良い人は何とかなる。しかし、たとえ謙虚でもケチであったら最早どうしようもありません。こういうことは男性よりも女性が敏感なようで、デートで飲み食いした際、割勘でさえ嫌われるのに、女性に払わせて平気でいる男など、モテる訳がありません。女にモテない男で出世した奴などいないんですよ。
ケチとは云っても、金品とは限らず、労力や知識・技能等の出し惜しみをする奴もダメですね。これはある人から聞いた話しですが、此の度の中越地震で、教え子達が勤務している被災地の施設に、大学から義損金を持参することになり、道路事情が悪い為頑丈な車が良いだろうということで、日頃ベンツで通勤している某教授にお願いした所、「車が痛むのでお断りします!何しろ800万もしたんですから!!」と来たそうな。
周りにいた教授・助教授も呆れ返って「錦鯉たった二匹分じゃありませんか!?」と茶化したら、真っ赤になって怒ったと云う。「その方もしかしたら自惚れ屋でもありませんか?」と聞きますと、「ええ、〇×大出を鼻にかけてお高く止まっています。誰もまともに相手をしませんから、いつも浮いています」とのこと。
「今度その人に会わせてくれませんか?」と頼みましたら、「ああ、そう云えばその人、僕は論語が好きでねぇ!?と云ってますから、今度紹介しましょう。でも会ってどうするの?」と問われましたので、「勿論ここを見せるんですよ!」と、この章を示した次第です。しかし果たしてピンと来ますかねえ?ケチは自覚症状がありませんからね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「君達!どんなに頭が良くてスポーツ万能でも、うぬぼれ屋でケチンボだったら、それでおしまいだ!誰も見向きもしなくなるよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
孔子は吝嗇(りんしょく・けちん坊、出し惜しみする人)を大層嫌っておりましたが、これは孔子だけでなく、聖人すべてに共通するようであります。釈迦は「六波羅蜜(六つの実践徳目)」の第一番目に「布施(施しをせよ!)」を挙げ、「長者の万灯より貧者の一灯」と教えている。
又イエスは「与えよさらば与えられん!」と云っておりますから、吝嗇(けち)は紛れもなく悪徳ということでしょう。ただ、ケチは自覚症状がありませんから、自分がケチかどうかを知りたければ、周りの人に聞いてみる他はありませんね。人に聞くのが恥ずかしければ、自分は女にモテるかどうか?自己判断してみることです。ケチは絶対にモテません。
四十過ぎて、女房以外の女に一度もモテたことのない男は出世しません。女にモテない男は、大概男にもモテませんから。お宅のご主人はいかがですか?うちはモテないから安心!などと呑気なことを云ってはいられないんですよ!?その分出世もしませんからね。
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