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原文
〕 作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月 |
曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校。
昔者吾友、嘗從事於斯矣。
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〔 読み下し 〕 |
曽子日わく、能を以て不能に問い、多きを以て寡に問い、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若く、犯されて校いず。昔者、吾が友嘗て斯に従事せり。
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〔 通釈 〕 |
曽子云う、「才能がありながらまだまだとして才能のない者にも問い、博学多識でありながらまだまだとして浅学の者にも問い、見識が有っても無いかのように、徳が充実していても空っぽであるかのように少しも気取った所がない。又、嫌なことをされても仕返しをすることがない。昔私の学友で顔淵という人がそうであった。残念ながら早死にして今はこの世にいない」と。
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〔 解説 〕 |
一般には「吾が友」を、孔子門下の諸賢を指すとしておりますが、敢て顔淵とさせてもらいました。曽子はここで、孔子門下の徳行の誰かを語っているのではないかと思いますが、徳行の人と云えば、顔淵(孔子より30才年下)・閔子騫(15才下)・冉伯牛(7才下)・仲弓(29才下)の四名が先進第十一で挙げられております。
孔子より46才も年下の曽子が、自分より30才以上年上の閔子騫を友と呼ぶ筈がありませんし、伯牛とは40才近く離れており、自分の父曽晢(そうせき)より年上の人ですから、これも友と呼ぶのは僭越でしょう(伯牛は癩病で早死にしておりますから、曽子とは面識がなかったかも知れない)。
残るは16才年上の顔淵か、17才年上の仲弓の二人という事になりますが、同じく先進第十一で「我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり」とあって、仲弓は曽子が従事した孔子晩年の門下には居なかったと考えられます。又、曽子の父曽晢(孔子より19才位下か?)も顔淵の父顔路(がんろ・6才下)も共に孔子門下の学友です。
つまり父同士が先輩後輩、子供同士も先輩後輩となれば、先輩である顔淵は後輩の曽子に何くれとなく目をかけ、曽子は顔淵を人一倍敬慕していたのではないでしょうか。そんな訳で、吾が友を顔淵に絞らせてもらった次第です。(考え過ぎかもしれません。間違っていたらごめんなさい)。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
曽先生が云った、「実力があるのに実力のない人の意見を聞き、知識が豊富なのに知識の乏しい人の意見も聞く。つまり、能力があってもないかのように、頭にたくさんの知識がつまっていても空っぽのように少しも偉ぶったところがない。又、人に嫌なことをされても仕返しをしない。私の先輩で顔淵という人がそうであった。私もこの先輩のようになりたいと思ってずっと生きて来たのだ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
顔淵が42才の若さで亡くなった時、曽子は26才でした。偉大な先輩顔淵のようになりたい!とずっと生きて来たのではないでしょうか。手本(模範)とすべき人は周りに結構いますが、一生の目標とすべき人物は、そうそう見つかるものではありません。(灯台下暗しってこともありますが)目標とすべき人が身近にいるということは、本当にありがたいことです。大抵は伝記の中ですからね。
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