泰伯第八 191

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原文           作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月
曾子有疾。孟敬子問之。曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、
其言也善。君子所貴乎道者三。
動容貌、斯遠暴慢矣、正顔色、斯近信矣、
出辭氣、斯遠鄙倍矣。
籩豆之事、則有司存。
 
〔 読み下し 〕
曽子(そうし)(しつ)()り。(もう)敬子(けいし)(これ)()う。曽子(そうし)()いて()わく、(とり)(まさ)()なんとするとき、()()くや(かな)し。(ひと)(まさ)()なんとするとき、()()うや()し。君子(くんし)(みち)(たっと)(ところ)(もの)(みつ)容貌(ようぼう)(うご)かして、(ここ)暴慢(ぼうまん)(とお)ざかり、顔色(がんしょく)(ただ)しくして、(ここ)(しん)(ちか)づき、()()(いだ)して、(ここ)()(ばい)(とお)ざかる、(へん)(とう)(こと)(すなわ)有司(ゆうし)(そん)す。
 
〔 通釈 〕
曽子が危篤に陥ったので、魯の大夫・孟敬子が見舞に行った。曽子は、「古い諺に『鳥が死にかけた時は哀しい声で鳴く。人が死にかけた時は立派な遺言(いげん)を残す』と申します。これから私が述べることは遺言(ゆいごん)だと思ってお聞き下さい。君子として貴ぶべき道が三つあります。

第一は、人を見下す思いは必ず態度に表れます。ですから自らの起居振舞を
            よく点検して、暴慢な態度を改めなさい。

第二は、嘘か真(まこと)かは必ず顔つきに表れます。ですから己の顔色を
             正して、言を違えないようにしなさい。

第三は、心の卑しさは必ず言葉づかいに表れます。ですから言葉づかいを
             点検して、卑しい思いを断ち切りなさい。

祭りに使う道具のことなど、係の役人に任せておけば宜しいのです」と云った。
 
〔 解説 〕

孟敬子 三桓の一人孟武伯の子で魯の大夫。曽子に師事していたくらいですから、人柄は悪くなかったのでしょうが、結語を見ますとどうも些末なことにこだわる性分だったのかも知れません。心の情態は必ず態度(容貌)・顔つき(顔色)・言葉(辞気)に表れる!と曽子は云う。

釈迦が最初に説いたとされる仏教の修業徳目、「八正道(はっしょうどう)」の中で、「正思(しょうし)・正しい思いを維持する」ことが出来たら一人前と云われますが、それだけ自分の心の情態を常に把握しコントロールするのは難しいということですね。

悪しき心の代表的なものを仏教では、貪(とん・貪りの心)・瞋(じん・恚(いか)りの心)・痴(ち・愚かな心)・慢(まん・自惚れの心)・疑(ぎ・疑いの心)・悪見(あっけん・邪な心)の「六大煩悩」と云って、これを取り除くことが正思の修業とされる。

暴慢は貪と瞋と慢の表れ、鄙倍は痴と疑と悪見の表れと捉えて良いのではないかと思います。しかし、こう云われても自分の心の情態を把握することは中々難しい。そこで曽子は云います、「ならば形から入れ!態度・顔つき・言葉を点検して、己の心を調教して行け!!」と。

この
ように解釈すれば、この章もぐんと生きて来るのではないでしょうか。
 

〔 子供論語  意訳 〕
(そう)先生(せんせい)(おも)病気(びょうき)にかかったので、()(くに)家老(かろう)(もう)敬子(けいし)がお見舞(みまい)()った。曽先生(そうせんせい)(もう)敬子(けいし)(たい)して、「(むかし)(ことわざ)に『(とり)()(とき)(かな)しい(こえ)()く。(ひと)()(とき)はいい言葉(ことば)(のこ)す』と()われております。(わたし)(さき)(なが)くないようですから、あなたに遺言(ゆいごん)(のこ)します。(ひと)(うえ)()(もの)(かなら)(まも)らなければならないことが(みっ)つあります。

(いち)
は、うぬぼれたり(なま)意気(いき)になって(ひと)()(くだ)さないこと。
()
は、その()しのぎで(うそ)
つかないこと。
(さん)
は、相手(あいて)(だれ)であろうといい加減(かげん)言葉(ことば)づかいをしないこと。

こうすれば、乱暴者(らんぼうもの)(こころ)(いや)しい(もの)(とお)ざかり、誠実(せいじつ)(ひと)(ちか)づいて()るようになります。
あとは部下(ぶか)(しん)じて(こま)かい仕事(しごと)(まか)せなさい」と()った。
 
〔 親御さんへ 〕

心の乱れは態度・顔つき・言葉のいずれかに表れます。何か後ろめたいことがある時はそわそわと落ち着かず・視線をそらし・語尾がはっきりしない。隠しごとがある時は、ぎこちなく・よそよそしく・話題をそらす。子供は子供なりに心の中で葛藤している訳で、この時点でガツン!とやるのは禁物です。

心理的葛藤は、選択に迷って心を鍛えている状態なのですから、様子を見ながら少し待ってやった方が良い。せいぜい「自分の良心に正直にね」というくらいでいいでしょう。子供も馬鹿ではありませんから、ちゃんと考えます。それでも嘘をついたり白を切ったりしたら、ガツン!とやる。ここで放っておいてはいけません。曲がりかけた時を見逃さずにバシ!と叩き直す。ここが肝腎なんですね。

服装や態度が乱れかけた時・顔つき特に目付きが乱れかけた時・言葉が乱れかけた時に、厳しく叱れるかどうか?褒めるだけで叱ることをしなかったら、子供はロクな人間に育ちません。何故かって?子供は叱られることをするのが仕事だからですよ。

三大聖人と云われる釈迦・孔子・イエスでさえも、みな厳しく弟子を叱って育てているではないですか。論語を見ても、弟子を褒めている所など何ヶ所もないでしょう。「褒めて育てる」だけで通用するのは、元々才能のあるマラソンランナーかバイオリニストくらいのもので、人格の陶冶には通用しません。ここを間違ってはいけません。
 

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