泰伯第八 189

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原文         作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月
子曰、恭而無愼而無禮則子葸。勇而無禮則亂。直而無禮則絞。
君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偸。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(きょう)にして(れい)()ければ(すなわ)(ろう)す。(しん)にして(れい)()ければ(すなわ)()す。(ゆう)にして(れい)()ければ(すなわ)(らん)す。(ちょく)にして(れい)()ければ(すなわ)(こう)す。君子(くんし)(しん)(あつ)ければ、(すなわ)(たみ)(じん)(おこ)る。()(きゅう)(わす)れざれば、(すなわ)(たみ)(うす)からず。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「恭しいのは良いが礼節が伴わないとくたびれる。慎重なのは良いが礼節が伴わないと臆病者に見られる。勇気のあるのは良いが礼節が伴わないと乱暴者とされる。率直なのは良いが礼節が伴わないと酷薄になる」と。

又云う、「人の上に立つ者が親族に手厚くすれば、人民はこれに感化されて親子兄弟睦み合うようになる。又、昔なじみを大切にして見捨てるようなことをしなければ、人民もそれを見習って薄情なことはしなくなるものだ」と。
 
〔 解説 〕

この章は元々二つの文章からなっていたものでしょうが、伝承の途中で「君子、親に篤ければ」の前にあった「子日わく」が抜け落ちてしまって、一本となったようです。恭・慎・勇・直はいずれも大切な徳目でありますが、礼節(礼儀と節度)が伴っていないと寧ろ弊害ともなりかねない、と、孔子は云います。

つまり、「礼無き恭は神経をすり減らし」、「礼無き慎は臆病に見え」、「礼無き勇は乱暴に思われ」、「礼無き直は人を絞めあげる」ということですが、これは確かにその通りです。恭・慎・勇・直に礼が伴っておれば、

「恭にして礼有れば則ち逸なり」           ・・・礼の伴った恭しさは安逸である。
「慎にして礼有れば則ち泰(ゆたか)なり」・・・礼の伴った慎重さは泰然としている。
「勇にして礼有れば則ち毅(き)なり」      ・・・礼の伴った勇気は毅然としている。
「直にして礼有れば則ち温なり」           ・・・礼の伴った率直さは温和である。


となりましょうか。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「君達(きみたち)は、ていねいであってもイライラしてはならん。用心(ようじん)(ぶか)あってもビクビクしてはならん。(いさ)ましくてもカリカリしてはならん。正直(しょうじき)であってもギスギスしてはならん。家族(かぞく)とはいつも(なか)()く、友達(ともだち)にはいつも(あたた)かくありなさい!」と。
 
〔 親御さんへ 〕

バランスがとれて程良きに叶うというのは、本当に難しいもので、ついつい度を越してやり過ぎてしまったり、逆に遠慮し過ぎてし足りなかったりするものです。こういう時に何か妙案はないものか?と云うと、孔子は礼節の物差しを当ててみろ!と云います。礼節とは、何千年にも渡る人々の営みの経験則から紡ぎ出された英和、つまり、人間関係に於ける調整の原理でありますから、蔑(ないがし)ろにはできません。

今時礼儀礼節などと黴の生えたようなことを云うな!というのであれば、じゃあそれに勝る
新たな調整の原理を発明してみろ!お前の頭で!と云う他はありません。できっこないでしょう?あなた一人一代の力では。それができないのであれば、素直に従いなさい!人類の英和に!!ということですね。時代環境の変化で意味のなくなったものは自然に廃れて行きますから、廃れずに残っているものにはそれなりの意味があると思って良いでしょう。
 

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